もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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いずみ江戸日記/保科正之

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田楽の味噌は辛口って相場が決まってるんだ。

味噌が辛口なら喉が乾く。だから酒が進むんで居酒屋も儲かるのよ。

肥後守保科正之)様?

いずみサン、何でまたあんなお方を?

ま、奉行所しょっ引かれても正月ってえことで頭ァ下げて大目に見てもらうにして、それにしてもいずみサンはアブねえ話ばっかし聴きたがるんだなあ。

ようござんしょ。

じゃ、ちょいとお耳を拝借しやすぜいずみサン。

秀忠公は生涯側室を置かなかった。天下の征夷大将軍がだぜ、いずみサン。

無論、ワケはある。

そりゃあな、秀忠公の御台所のお江与の方がどうしようも無え「ひすてりーまま」だったからよ。

「ひすてりーまま」だから、側室なんか置いたら何しでかすかわかりゃしねえ。そんなことで秀忠公は生涯側室を置かなかった。

でもないずみサン、秀忠公が生涯でただ一度やっちまった。いや、アレだいずみサン。浮気だ浮気。浮気でアレしてガキがデキちまったんだよ。

相手はな、御城(江戸城)の奥(のちの大奥)を仕切る大姥殿の侍女でお志津ってえ娘っ子だ。

今まで秀忠公には何度か浮気の「ちゃんす」はあった。けどな、秀忠公はその都度手ェ出さねえで事なきを得てたんだ。が、お志津は抱いちまった。理由はよくわからねえんだがな、お志津を抱いちまったのよ。

抱いただけならそれでこの話は仕舞いだ。でもよいずみサン、オレたちの時代は「こんどおむ」が無えんだよ。だから、その…デキるときゃ…そりゃ…デキるのよ。

お志津の腹ァ大っきくなんの見て、大姥殿は「こりゃマズい」って思った。何せ大姥殿は奥の総大将だ。秀忠公よりもお江与の方の「ひすてりーまま」ぶりをよォく知ってる。

大姥殿は秀忠公に「このままではお志津はおなかの子供もろとも御台所様に殺されてしまいます」って言ってな。そンで「お志津をどっかに逃がせ」って。

秀忠公はあの性格だ。お志津に腹の子を水にしろなんて言えやしねえ。でもあの「ひすてりーまま」に向かって「お志津を側室にする」なんてことも言えねえ。

思い余った秀忠公は大炊頭様(土井利勝)に打ち明けた。大炊頭様は「あとはそれがしがやり申す」ってな。そンでその日のうちに土井屋敷にお志津を引き取ったんだ。そのあと大炊頭様はお志津を実兄・神尾嘉右衛門の家に逃がした。

お志津はもとは北条の遺臣で神尾栄嘉ってえのがいてな、そいつの娘だった。北条滅亡後に神尾のヤツァ浪人したが、権現様が天下ァ取って人手があちこちで必要になったときに娘のお志津が奥向きで召し抱えられた。

嘉右衛門は浪人だから大炊頭様も「のーまーく」だろうって油断したんだが、あの「ひすてりーまま」はお志津の兄貴が嘉右衛門だって突き止めた。突き止めりゃ屋敷を襲ってお志津を母子もろとも殺すまで。ま、この企ては直前になって大炊頭様がつかんでお志津を別の場所に逃がして事なきを得たんだがな。

大炊頭様は今度はお志津を義兄・竹村助兵衛の家に逃がした。竹村助兵衛の女房はお志津の姉だ。いずみサン、今度ァ大炊頭様も油断しなかった。江戸町奉行に手ェ回してな、「ひすてりーまま」が手ェ出せねえようにしたんだ。

で、慶長16年の5月7日だ。

お志津は竹村の家で元気な男の子を生んだのよ。この子が幸松丸坊っちゃん、のちの保科肥後守正之だ。

その月のうちに秀忠公は大炊頭様の屋敷に訪れてな。そンとき、幸松丸坊っちゃんをどうすんのかを話し合ったのよ。この話し合いで幸松丸坊っちゃん見性院様に預かってもらうことにした。見性院様ってえのは信玄入道の娘だ、いずみサン。

見性院様のもとには武田の遺臣の腕利きが常に身の回りを警護してる。だから「ひすてりーまま」が幸松丸坊っちゃんを殺そうとしてもそいつァ無理だ。ただ、お志津は違う。お志津は竹村の家にいる。「ひすてりーまま」は「子供が無理でも、お志津は殺せるでしょう」ってしつこくお志津を狙い続けたんだ。

大炊頭様が町奉行に手ェ回してるから露骨な殺しは出来ねえ。が、一瞬の隙を突かれかねねえからな。秀忠公の願いは母子ともに無事であること。母子ともに無事であることを優先させるならいずみサン、幸松丸坊っちゃんもお志津も江戸に置いちゃおけねえ。

ありゃあ確か元和3年の11月8日だ。

大炊頭様は幸松丸坊っちゃんとお志津を信濃高遠に逃がした。お志津一行には高遠藩保科家と古河藩土井家から腕利きのお侍が何人も護衛についた。だから「ひすてりーまま」も手ェ出せずに幸松丸坊っちゃんは無事高遠に到着した。このとき幸松丸坊っちゃんは7つだ。

幸松丸坊っちゃんは高遠藩保科家の養子になった。秀忠公の隠し子は保科正之様として人生を歩むことになったのよ。

その正之様と秀忠公の対面は寛永6年、正之様が18のときだ。父子対面はこれ一回こっきりだが、肥後守様はこの一回こっきりを生涯の大切な思い出にしなすった。

秀忠公が薨去なさったあとだ、いずみサン。家光公が江戸目黒で鹿狩りやったときのことよ。休息場所の寺の坊主がな、肥後守様のことを口にした。肥後守様のこたァ御城じゃ口にしちゃならねえ。だから家光公はここで初めて駿河様(徳川忠長)以外の弟の存在を知ったのよ。

「弟に会いてえ」って家光公は肥後守様を御城に呼び出した。会ってみて、「こんな弟がいたなんて」って大喜びしなすった。これが寛永13年のことで、この年に肥後守様は信濃高遠3万石から一挙に17万石加増して出羽山形20万石に国替えした。いずみさん、いきなり6倍以上のご加増だ。これで家光公の喜びの大きさがわかるってモンだろう。

あとはいずみサンも知っての通りだ。山形20万石から陸奥会津若松23万石へ国替え、これが会津松平家の家祖になったのよ。

田楽は会津でも食べられてるんだ。

コメどころは酒どころに味噌どころ。

今夜はい~い酒だったぜ。

いずみサン、また。