もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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いずみ江戸日記/鳥居忠恒・忠春

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今日は高遠のそばだ。

高遠のそばはめんつゆじゃ無え。おろした大根と味噌つけて食うんだ。

これがまためんつゆとは違った味がしてうめえんだ。

鳥居主膳正(忠春)様と左京亮(忠則)様。

ああ、ありゃあ親子二代、正真正銘のトンチキだぜいずみサン。

あのトンチキ親子のせいで、高遠がまともな藩に戻るのにン十年もかかっちまった。

何でいずみサンがあんなトンチキの話を聴きたがるのかわかんねえが、ようござんしょ。

じゃ、ちょいとお耳を拝借しやすぜいずみサン。

鳥居主膳正様は先々代の左京亮様(鳥居忠政)の三男だ。

先々代の左京亮様はな、親父の元忠様が関ヶ原んときに伏見城で石田相手に討ち死にした功績で下総矢作4万石から陸奥磐城平10万石に、さらには最上がお取り潰しになるとその旧領のうち22万石を与えられて山形藩主におなりなすった。

先々代の左京亮様が亡くなると、先代の左京亮様が跡を継いだ。これが鳥居忠恒様で、トンチキ主膳正様の実の兄貴だ。

ただ、先代の左京亮様はからだが弱くてな。だからずっと山形にいて藩政と伊達・上杉の監視に当たってたんだ。ま、からだが弱いお方だったから、正室がいるが子供がデキねえ。子供がデキなきゃいずみサンの想像通り御家騒動だ。

先代の左京亮様には同母弟の戸沢定盛様と異母弟の主膳正様の二人の弟がいた。いずみサン、先代の左京亮様は主膳正様と仲が悪くてな。で、先代の左京亮様は戸沢の家に出した定盛様を鳥居の家に戻しててめえの養子にしようとした。これを嗅ぎ付けた主膳正様の生母が幕府に訴え出たんだ。「当主に非法の相続の企てあり」ってな。

確かに「非法の相続」なんだ、いずみサン。いったんよそへ養子に出た者を跡継ぎになんて、当時の法度(法律)で認めらんねえし、何よりオレたちの時代はいずみサンの時代よりも「れじてましー」を重要視したんだ。

そうこうしてるうちに先代の左京亮様が33で亡くなられた。世継ぎがいねえ、決まらねえってことで山形藩はお先真っ暗よ。加えて先代の左京亮様は井伊直勝様と親しかった。こいつがマズかった、いずみサン。井伊直勝様は彦根の御大老井伊直孝)の実の兄貴なんだがな、直勝様は越前様(結城秀康)と仲良しだったことから彦根藩主の座を追われたお方だ。彦根藩じゃ直勝様が彦根藩二代目だってえ履歴を抹消しちまうくらい、マズいお方だった。

彦根の御大老はそこンとこを忘れちゃいねえ。だから彦根の御大老の一声で山形22万石は収公だ。が、収公にゃしたんだが何せ鳥居の藩祖はあの元忠様だ。家光公の意向もあって、彦根の御大老は主膳正様に改めて信濃高遠3万石を与えなすった。こっからだ、いずみサン。高遠の領民の不幸の始まりは。

このトンチキ野郎の主膳正様はな、鳥居家をもう一度22万石にしてえってんで幕府のお役目片っ端から引き受けた。増上寺警備、御城(江戸城)西の丸の石垣修理、朝鮮通信使接待費用負担、大坂城加番(大坂城警備)、何でも引き受けた。こんだけお役目引き受けりゃあゼニがいくらあったって足りねえぜ。で、足りねえ分は年貢になって跳ね返る。そのクセ、てめえは高遠に帰国すると年に5回も6回もオンナ遊びで無駄遣いだ。

「年貢を重く取り立てるのであれば、殿ご自身も倹約されよ」。いずみサン、そう言って主膳正様を諫めたご重臣もいたんだが、諫めたご重臣7人全員お手討ちにされちまった。ここまでくるとトンチキ通り越して気違いだ。さらには年貢が重過ぎて耐えらんねえお百姓がみんなして木曽に逃げちまった。木曽は尾張領だ。尾張からも幕府に「高遠藩はまともなのか?」って苦情が出る。まともなワケァ無えんだが、高遠はたったの3万石だ。事を軽く見た幕府は放ったらかしにしたのよ。

寛文3年のことだ、いずみサン。

この年、また例によって高遠藩は大坂城加番を引き受けた。二度目の大坂行きだ。

あれァ確か7月だったな。トンチキ主膳正様の侍医に松谷寿覚ってえお人がいてな。その松谷さんが「高遠の人々の恨み、覚えたか!」って短刀でトンチキのヤツをブスリよ。松谷さんはトンチキのヤツの叫び声聞いた家臣にその場で討ち取られたが、トンチキもこのときの傷がもとで8月1日におっ死んだ。40歳だった。

トンチキ主膳正様にゃあ忠則様ってえお世継ぎがいてな。だから高遠藩はこの忠則様が相続した。

こいつが鳥居左京亮忠則様なんだがな、そばが伸びちまうから、その話はまた今度だ。

おろした大根から出る汁で味噌がい~い感じのそばつゆになるのよ。

いずみサン、また。