もずの独り言・はてなスポーツ+物置

半蔵ともず、はてなでも独り言です。

奈穂子様/松平武元

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こんな寒い日にゃ、軍鶏鍋に熱燗よ。

軍鶏の歯ごたえってえのはそんじょそこらのコケコッコーとは違うからな。

「べごにあ」ってえ花は、ずいぶんとまあ真っ赤っ赤な花なんだなあ、奈穂子サン。

で、この花、石岡に咲いてるんだって?

石岡ってえと松平源之進様の御実家だあな。源之進様は石岡藩から館林藩に養子に入りなすった。

石岡藩ってえのは水戸様の御連枝で、石高は2万石だった。え?何か言ったかい、奈穂子サン?

「少ねえ」?はははは、面白えこと言うなあ。

御三家の御連枝(分家)ってえのはだいたいこんなモンよ。

尾張様の御連枝は美濃高須3万石、紀州様の御連枝は伊予西条3万石だ。

水戸様はちょっと御連枝が多くてな。まず讃岐高松の松平家、こいつァちょっと他の御連枝とは別格でな。12万石与えられて、幕政への口出しも認められてた。

次に陸奥守山の松平家。ここは2万石だ。その次に常陸石岡2万石、最後に常陸宍戸1万石だ。

源之進様はこのうちの石岡藩の三男坊として生まれなすった。御連枝とはいえ三男坊だ、何事も無けりゃあ部屋住みの穀潰しで「はい、おしまい」よ。ところがどっこい館林の松平武雅様が24歳でぽっくり逝っちまった。

館林藩松平清武様っていうエラーいお人が作った藩だから、そうそうお取り潰しってワケにもいかねえ。そこでだ、奈穂子サン。石岡藩の三男坊を急養子(末期養子)にって話になったのよ。

ただな、この養子の一件、幕府は気に入らなかった。藩祖の清武様は文昭院様(家宣将軍)の御実弟でな、ひと頃は「八代将軍に」ってえ噂まで出たお方だ。清武様には清方様ってお世継ぎがいたんだがこれが清武様より先に死んじまった。で、清武様は尾張様の御連枝の美濃高須藩から武雅様を養子にもらった。もちろん、尾張の連中が何か企んでいたのは間違いねえんだ。つまりは、館林藩を「尾張の分家同様にしちまえ」ってことだ。ところが武雅様がすぐにぽっくり逝っちまった。もちろんお世継ぎなんて残しちゃいねえ。そこで尾張の連中考えた、「そうだ、水戸と組もう」ってな。そこで水戸の連中に相談して石岡の源之進様を館林に入れたってワケだ。

「どーして館林にこだわるの?」さすがァ奈穂子サンだ、眼の付けどころがお見事だぜ。

館林ってえ土地は、譜代の重鎮か家門(親藩)のどっちかしか藩主になれねえ格式高ーい土地なんだ。尾張の連中はそこブン獲って九代将軍の座をもぎ取るための足がかりにしようとしなすった。

それに有徳院様(吉宗将軍)が気付いたってえワケだ。そんで源之進様を館林から陸奥の棚倉なんて雪降って寒いトコにトバしたんだ。尾張の連中も館林の連中ぐれえに震えたろうぜ。まあでも14歳の源之進様にゃあ棚倉の寒さは骨身に凍みてつらかったろうぜ。

28歳のとき、浚明院様(家治将軍)付き御老中に就任したのをきっかけに館林に返り咲いた。

この頃にゃ源之進様は名前を松平武元って改めていなすった。武元は「たけちか」って読むんだぜ、奈穂子サン。

武元様は有徳院様から信用されててな。有徳院様の葬儀委員長をあの越前のダンナ(大岡忠相)と一緒に務めたんだ。

惇信院様(家重将軍)が死んで浚明院様が十代将軍に就くと、武元様は首席老中になった。

武元様も大炊頭様(土井利勝)とおんなじで「(吉宗・家重・家治の)三代の名相」って呼ばれた。

浚明院様の代は財政が比較的安定してたこともあって、武元様も幕政を執るうえで楽だったんじゃねえのかな。浚明院様の前半を支えたのが武元様、後半は例のあの田沼意次だ。

浚明院様ってお方は、ちょっと無気力で消極的な将軍だった。だからまあ、首席老中としてはよっぽどしっかりしなきゃあって「ぷれっしゃあ」はあったかも知れねえな。

首席老中であること17年、武元様は65歳で亡くなるまで幕政をお執りなされた。相当なキレ者だった。

石岡に咲いた真っ赤な花ァ見て、ちょっと思い出しちまったよ。

あ、軍鶏が煮くたびれちまう。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/忠臣蔵

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最近すっかり冷え込む日が増えやしたね、奈穂子サン。

こんな日にゃあ濃い目の出汁の鴨南蛮をズルズルッとね。

赤穂の浪人さんたちも、本所の吉良屋敷に討ち入る前は蕎麦をズルズルッとやったって言うじゃありやせんか。

ま、関東者は蕎麦が相場、うどんは西のお方の食べ物でさあね。

おっと、江戸にも「一本うどん」なんておもしれえうどんを出す店もあるんですぜ、奈穂子サン。

え?あの日どうして浅野様は吉良のジイサンに斬りつけたかって?

ま、アレでさあね。

「乱心」の一言でさあね。

浅野様が勅使接待を仰せつかったのは元禄14年。実はこれ、浅野様は二度目のお役目なんでさあ、奈穂子サン。

一度目は天和3年、このときも接待役の上司は吉良のジイサンだった。

そのときは、何事も無かった。

それもそのはずだ。あのときは赤穂の家老に大石頼母助って名家老がいなすった。

この頼母助サンって人が世間をよく知っていなすった。だから、吉良のジイサンに「袖の下」をたんまり渡した。

吉良のジイサンも貰うモン貰ったら上機嫌、そりゃもう若い浅野様に手取り足取り親切にしなすった。

ところが18年経った二度目のときはあの始末でさあ、奈穂子サン。

二度目のときは、頼母助サンはもうこの世にゃいなかった。他の家老どもの中に世間の分かるヤツがいりゃあ良かったんだが、どいつもこいつもウドの大木だったんだ。

お役目の予算ってのがある。こいつは実際にお役目に使うゼニのことで、「袖の下」とは別モンだ。

浅野様は「700両で」とお言いなすった。

「馬鹿言っちゃいけねえ!」吉良のジイサンは色なして怒鳴った。

無理もねえ話でさ。

いつの時代も物はタダじゃ買えねえ、物価ってモンがある。そうだろう、奈穂子サン?

天和3年の物価の感覚にちょっと毛が生えた程度のゼニ勘定しか出来なかったんだ、浅野のご家中は。

元禄8年、お犬様(綱吉将軍)は荻原ナントカってえ勘定奉行に命じて小判をいっぱい作らせた。

「改鋳」ってヤツだ。

奈穂子サンにわかりやすく言やあ、それまで使ってた小判(慶長小判)を鋳潰して新しい小判をたっくさん作るってワケだ。

で、問題は新しく出来た小判のことでさあ。

今までの小判が「金100ぱあせんと」だとしたら、新しい小判は「金67ぱあせんと」。つまり、質の悪いゼニが世間に出回ったってことでさあ。

質の悪いゼニを使うと、アキンドがそのゼニを信用しねえ。そいつが物価高になって跳ねっ返る。

それで元禄8年以降の物価は天和3年の頃の物価の倍以上に跳ね上がったってワケでさあ。

浅野様も浅野のご家中もそこんトコを理解しねえ。

だから、天和3年の400両にちょいと上積みして700両ってソロバン弾いた。

これじゃ「袖の下」以前の話の金額だ。吉良のジイサンが色をなすのも無理はねえ。

それでも、「袖の下」でもやりゃあ吉良のジイサンだって700両なりの遣り繰りを手取り足取り親切にしてくれたかも知んねえが、「袖の下」はお役目が全て終わってからでいいって家老どもが浅野様に言いやがった。

それであのジイサンには「袖の下」が無かった。

「袖の下」ってのは奈穂子サンの時代では「賄賂」って言われちまうんだろうけど、この時代の「袖の下」ってのは奈穂子サンの時代の「授業料」ってヤツだ。

吉良のジイサンは「高家」って家柄の旗本だったが、こいつあ位ばっかし高くって、実際は貧乏だった。だけど、高家はお公家さんやら何やらエラい人たちと日頃からお付き合いすんのがお役目だ。当然、ゼニがかかる。「袖の下」はそのお付き合いのゼニと自分の生活費の二つの顔があったんでさあ。

せめて相場通りの予算を出してりゃ「袖の下」が無くても吉良のジイサンは浅野様をあそこまでいじめはしなかった。

浅野の家老どもは世間をわかっちゃいなかった。ねえ、奈穂子サン。

もちろん、紀州様(徳川吉宗)のおっしゃる通り、「武士を侮辱するのはけしからん」ってえのも正しいが、吉良のジイサンも苦しかった。

お犬様はちょいと仕事がダメだったりするとすぐ「改易だーっ」、「切腹だーっ」っておやりなさる。奈穂子サンの時代でいうトコの「ぷれっしゃあ」ってえのは相当なモンだった。

足りない予算でお役目を無事に果たす。無理な話でさあ。

追い詰められた吉良のジイサンが浅野様にキツく当たり続けたのも無理はねえ。

奈穂子サンに参考までに。元禄10年に同じく勅使接待役を仰せつかった日向飫肥の伊東様は1200両用意しなすった。

浅野様は動機のお取り調べで「よくわからない。気付いたら脇差を抜いていた」とおっしゃった。

正直なトコなんじゃねえのかな。

予算の足りない「ぷれっしゃあ」から吉良のジイサンにとことんいじめられた。

追い詰められた浅野様はいっとき乱心しちまったんだろう。無理もねえ話だ。

あ、蕎麦が伸びちまう。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/慶安事件

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いやあ~嬉しいねえ~。

何がって?

そりゃアンタ、雑煮の中にほらっ、かしわの肉がゴロンゴロン入ってるんだからよォ。

最近の奴ァ海老だの鯛だの入れやがっていけねえな。

ん?かしわ?

かしわってえのはアレよ、コケコッコーよ。

由比のおっさんのことですかい、奈穂子サン?

あのおっさんは、駿府で生まれた。

ま、はっきりわかってんのはそこまでだ。

百姓の子どもだとか染め物屋の息子だとかいろいろと話のあるおっさんなんだ。

で、ガキの頃に「オレぁ石田治部少輔の隠し子だ」って大法螺吹いて奉行所にしょっぴかれた。バカなガキだったんだな。

何とか親がペコペコ頭下げて放免してもらったが、しょうがねえお騒がせ小僧だったってワケだ。

このお騒がせ小僧がどういういきさつか知らねえが、楠木流兵法と武田流軍学の書物を手に入れた。

「ナントカに刃物」って言葉、あるだろう?

そんなもんだよ、コレは。

ま、大坂で太閤さんのセガレとおっかあをやっつけてからはいくさが無くなっちまったからなあ。

いくさが無くなるとお大名たちが「治にいて乱を忘れず」って言い出しやがった。カッコつけてえ生き物なんだよ、お大名ってのは。

それが由比のおっさんにとっては商売の土台になった。

由比のおっさんは江戸の牛込で「張孔堂」って軍学の塾を開いた。

こいつが当たった。

上は国持の家老から下は貧乏浪人まで、こぞっておっさんの塾に通ったんだ。

「張孔堂」の「張」は漢の張良から、「孔」はかの有名な諸葛孔明諸葛亮)から取ったってんだから胡散臭えことこのうえねえだろう、奈穂子サン?

でもよ、世の中何が当たるかわからねえもんでな。この「張孔堂」、そりゃもう大繁盛だった。

で、ここに出入りする浪人に金井半兵衛ってえのと槍の先生で丸橋忠弥ってえのがいた。

この金井ってえのが紀州様(徳川頼宣)と繋がっててな。こいつが由比のおっさんに幕府転覆を持ちかけた。「こんだけの人数がいりゃあ大丈夫だ」って。そこに槍の先生が乗って来た。槍の先生は、ホラ、アレだ、奈穂子サン、あいつだよあいつ、あのボンクラ大名の、いけねっ、名前が出てこねえ…

ああっ、思い出した!

長宗我部だよ長宗我部!長宗我部盛親セガレなんだよ。

てなワケでそりゃ当然槍の先生は幕府憎しだ。長宗我部盛親は大坂が落ちたあと打ち首にされちまったんだから。

金井のヤツが紀州様とつるんでやがるんで話はだんだん大きく危ねえほうに向かってったんだ。

まあ何せ「張孔堂」にゃ食い詰めた浪人連中がわんさかいるモンだから、「こりゃあひょっとしたら、ひょっとするんじゃねえか」ってヘンな夢見るようになっちまった。

そこへ来て、だ。奈穂子サン。紀州様が乗り気になっちまった。

もともと権現様(大御所家康)は台徳院様(秀忠将軍)をそんなに買っちゃあいなかった。

横手に流された本多様(正純)なんか、そりゃあしょっちゅうそこいらで言い触らしてたからな。

それで例のあの泣く子も黙る大炊頭(土井利勝)に取り潰された。

みんな薄々は感じてたんだ、権現様は台徳院様よりも紀州様のほうがかわいいってことをな。

紀州様だってそこんトコはよくわかっていなさるから、「江戸なんてクソくらえ、和歌山に幕府作ってやんぜ」って気になっちまった。

そこに金井のヤツと槍の先生が話に乗った。

由比のおっさんも「たった一度の人生よ、パッと花をさかせやしょう」なんて言い出しやがった。

「張孔堂」に出入りしてる浪人連中は「謀反がバレても、どうせこれ以上暮らしは悪くならねえよ」と由比のおっさんたちに同調しちまった。

紀州様はそれ知って大笑いだ。何せ紀州様は日頃から「オレが将軍なら浪人あのまま放ったらかさねえ。ちゃあんとメシ食えるようにしてやんぜ」って言ってたからな。

もし、紀州様が本気も本気で旗揚げすりゃあどうなるかわからなかったけどな。紀州様が本気になる前におっさんたちの企みを知恵伊豆(松平信綱)のダンナが潰しちまった。伊豆のダンナは奈穂子サンの時代の「すぱい」ってヤツを使った。

この「すぱい」が槍の先生から謀反の計画を聴き出した。槍の先生は真面目だったが酒やめらんなくて借金こさえてた。で、「すぱい」のヤツが借金取りに化けて槍の先生に話を聴いたんだ、「いつ返してくれるんだい?」ってな。そしたら槍の先生「近々謀反の報酬金が出るから、そこで全額スッパリ払ってやらあ」って言っちまった。「すぱい」はそのまま真っ直ぐ伊豆のダンナに御報告よ。

伊豆のダンナはまず金井のヤツと槍の先生をとっ捕まえた。次に由比のおっさんを駿府で見つけて腹ァ切らせた。おっさん、大人しく塾やってりゃあなあ…

で、最後に紀州様だ。

謀反の手紙が出て来たってんでお取り調べになったが、加納って若いのが隣の部屋で黙って腹切って死んだんだ。

そしたらお取り調べは打ち切りになった。

あ、餅がふやけちまう。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/土井利勝

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ああ、んめえっ!白いメシ粒に生卵!!

根深汁に大根の漬け物!!

しあわせだよ、しあわせ!!

奈穂子サン、何だって今日はそんなお人の話を聴きたがるんで?

まあ、話しちゃいけねえお人でもねえし。まあ、奈穂子サンのような若いお嬢さんが聴きたがるような話でもねえんだが…

わかりやした。お話ししやしょ。

土井大炊頭利勝様は、権現様(大御所家康)の「落とし胤」だ。おっと、「隠し子」なんて下世話は言っちゃいけねえよ。

権現様と葉佐田則勝ってえ人の娘さんとの間に出来たんだが、権現様の御正室の築山サンってえのが奈穂子サンの時代で言う「ひすてりい」ってヤツだったんでさあ。

で、この「ひすてりい」の御正室が身ごもった葉佐田の娘を腹ン中の赤子もろとも殺そうとしやがった。

で、「こいつはヤバい」ってんで葉佐田の娘を身ごもったまんま土井利昌ってえ家臣に押し付けた。

それで葉佐田の娘は土井家で男の子を生んだ。

その子の名前は権現様がお付けになった。

松千代ってえ名前にしたんでさあ。「松の木のように縁起のいいセガレになりやがれ」ってな。

権現様はよっぽどこの子がかわいかったんだろ。で、この松千代坊ちゃんを台徳院様(秀忠将軍)の小姓にしなすった。名乗りも土井甚三郎ってお侍らしい名乗りになった。

台徳院様と甚三郎坊ちゃんの歳の差は7つ。まあ、台徳院様から見たら親しみやすい兄貴だったんじゃねえのかな。

そうこうしてるうちに甚三郎坊ちゃんに権現様が脇差をお与えになられた。で、みんな気付くってえワケだ。「甚三郎どののててごは権現様か」ってな。

腹ン中にいたときに、もうヨソの家の子として生きなきゃならなかった。屈折しちまったんだな、きっと。脇差もらって遠まわしに「おまえは落とし胤」って言われたって、こころン中ァぽっかり穴が空いたまんまだ。

甚三郎坊ちゃんは土井家を継いで土井利勝になった。泣く子も黙る大炊頭の登場ってえワケだ。

奈穂子サン、「大炊頭」って、ちゃんと読めるかい?こいつは「おおいのかみ」って読むんだ。覚えといてくんな。

台徳院様と大炊頭様は二人三脚。こいつは台徳院様が死ぬまで続いた。台徳院様はそりゃあいっぱい大名を取り潰した。大炊頭様と二人三脚でな。家門と言わず譜代と言わず、外様は無論のこと、ずっと震えてた。「明日は我が身だ」ってな。

大炊頭様がどんだけ怖がられてたか、こいつは仙台の中納言様(伊達政宗)から聴いたんだがな、ある日御城(江戸城)で大炊頭様が誰か大名とすれ違った。そしたらそいつが「大炊頭様のお髭の生えた顔は、権現様にそっくりだ」なんて言いやがった。それ聴いて大炊頭様はすぐさま髭を剃っちまった。「恐れ多い」ってな。で、こっからだ、奈穂子サン。大炊頭様が髭剃ったのを見て、諸大名はみーんな髭剃っちまいやがった。「髭生やしてたら睨まれてお取り潰しだ」ってな。

何より大炊頭様のおっかねえトコを見せつけたのが駿河様(徳川忠長)の御生害よ。取り潰して上州高崎に閉じ込めた後、阿部対馬様(重次)を高崎に行かせた。対馬様は高崎で駿河様に何やら一言二言喋ってすぐ帰っちまった。で、対馬様が帰ったあとに女中が熱燗持って部屋に入ってびっくり仰天よ。駿河様は畳の隙間に太刀を立てて、そこに自分の首刺し貫いて死んじまった。対馬様が何喋ったなんて、誰も知らねえ。ただ、大猷院様(家光将軍)に殉死してるとこを見ると、相当なことがあったんじゃねえのかな、と。

これが大炊頭様の「泣く子も黙る」に箔を付けた。ありゃあ知恵伊豆(松平信綱)のダンナよりも格段にうわ手だぜ。

そりゃそうだ。大炊頭様は台徳院様から「我が家の諸葛孔明諸葛亮)だ」なんて言われたお人だぜ。由比のおっさんみてえな「自称諸葛孔明」とは月とすっぽんよ。

あの紀州様(徳川頼宣)でさえ、呼び捨てしねえで「大炊どの」って呼んでたくれえだからな。ま、アレだ、おっかねえオヤジの一人でもいねえと、幕府ってえのはやっていけねえモンなのかな。

大炊頭様がしあわせだったかどうか?

そいつぁオレにゃあ何とも言えねえな。

執政職(大老)って言ったって、徳川はおろか松平さえも名乗れなかったしなぁ。石高だってたったの16万石だ。「三代の名相」なんて世間で呼ばれても、たったの16万石よ。

ただな、大炊頭様が台徳院様のもとで辣腕振るえたのは事実だし、言葉を選ばなければ「好き勝手」に幕府を仕切った。

それ考えたら収支トントン栗きんとんだったんじゃねえのかな、大炊頭様は。

あ、そうそう。雪の模様に「大炊模様」ってあんだろ?あれァな、大炊頭様の子孫の利位様の頃に作られた模様なんだよ。土井家は代々大炊頭を名乗ったんだ。

ネギはまっすぐ切らねえと、味噌汁辛くなっちまうぜ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/松平武元

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こんな寒い日にゃ、軍鶏鍋に熱燗よ。

軍鶏の歯ごたえってえのはそんじょそこらのコケコッコーとは違うからな。

「べごにあ」ってえ花は、ずいぶんとまあ真っ赤っ赤な花なんだなあ、奈穂子サン。

で、この花、石岡に咲いてるんだって?

石岡ってえと松平源之進様の御実家だあな。源之進様は石岡藩から館林藩に養子に入りなすった。

石岡藩ってえのは水戸様の御連枝で、石高は2万石だった。え?何か言ったかい、奈穂子サン?

「少ねえ」?はははは、面白えこと言うなあ。

御三家の御連枝(分家)ってえのはだいたいこんなモンよ。

尾張様の御連枝は美濃高須3万石、紀州様の御連枝は伊予西条3万石だ。

水戸様はちょっと御連枝が多くてな。まず讃岐高松の松平家、こいつァちょっと他の御連枝とは別格でな。12万石与えられて、幕政への口出しも認められてた。

次に陸奥守山の松平家。ここは2万石だ。その次に常陸石岡2万石、最後に常陸宍戸1万石だ。

源之進様はこのうちの石岡藩の三男坊として生まれなすった。御連枝とはいえ三男坊だ、何事も無けりゃあ部屋住みの穀潰しで「はい、おしまい」よ。ところがどっこい館林の松平武雅様が24歳でぽっくり逝っちまった。

館林藩松平清武様っていうエラーいお人が作った藩だから、そうそうお取り潰しってワケにもいかねえ。そこでだ、奈穂子サン。石岡藩の三男坊を急養子(末期養子)にって話になったのよ。

ただな、この養子の一件、幕府は気に入らなかった。藩祖の清武様は文昭院様(家宣将軍)の御実弟でな、ひと頃は「八代将軍に」ってえ噂まで出たお方だ。清武様には清方様ってお世継ぎがいたんだがこれが清武様より先に死んじまった。で、清武様は尾張様の御連枝の美濃高須藩から武雅様を養子にもらった。もちろん、尾張の連中が何か企んでいたのは間違いねえんだ。つまりは、館林藩を「尾張の分家同様にしちまえ」ってことだ。ところが武雅様がすぐにぽっくり逝っちまった。もちろんお世継ぎなんて残しちゃいねえ。そこで尾張の連中考えた、「そうだ、水戸と組もう」ってな。そこで水戸の連中に相談して石岡の源之進様を館林に入れたってワケだ。

「どーして館林にこだわるの?」さすがァ奈穂子サンだ、眼の付けどころがお見事だぜ。

館林ってえ土地は、譜代の重鎮か家門(親藩)のどっちかしか藩主になれねえ格式高ーい土地なんだ。尾張の連中はそこブン獲って九代将軍の座をもぎ取るための足がかりにしようとしなすった。

それに有徳院様(吉宗将軍)が気付いたってえワケだ。そんで源之進様を館林から陸奥の棚倉なんて雪降って寒いトコにトバしたんだ。尾張の連中も館林の連中ぐれえに震えたろうぜ。まあでも14歳の源之進様にゃあ棚倉の寒さは骨身に凍みてつらかったろうぜ。

28歳のとき、浚明院様(家治将軍)付き御老中に就任したのをきっかけに館林に返り咲いた。

この頃にゃ源之進様は名前を松平武元って改めていなすった。武元は「たけちか」って読むんだぜ、奈穂子サン。

武元様は有徳院様から信用されててな。有徳院様の葬儀委員長をあの越前のダンナ(大岡忠相)と一緒に務めたんだ。

惇信院様(家重将軍)が死んで浚明院様が十代将軍に就くと、武元様は首席老中になった。

武元様も大炊頭様(土井利勝)とおんなじで「(吉宗・家重・家治の)三代の名相」って呼ばれた。

浚明院様の代は財政が比較的安定してたこともあって、武元様も幕政を執るうえで楽だったんじゃねえのかな。浚明院様の前半を支えたのが武元様、後半は例のあの田沼意次だ。

浚明院様ってお方は、ちょっと無気力で消極的な将軍だった。だからまあ、首席老中としてはよっぽどしっかりしなきゃあって「ぷれっしゃあ」はあったかも知れねえな。

首席老中であること17年、武元様は65歳で亡くなるまで幕政をお執りなされた。相当なキレ者だった。

石岡に咲いた真っ赤な花ァ見て、ちょっと思い出しちまったよ。

あ、軍鶏が煮くたびれちまう。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/安中藩遠足

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ざるそばの薬味に練り物ってえのは、江戸広しといえどもオレしかいねえなあ。

じゃあまんあいりす?

こないだ吉原行ったらそこの傾城に「じゃまでありんす」なんて言われてムッと来たんだが、それじゃねえんですかい、奈穂子サン?

え?

花の名前だ?

こんなトンチキな名前の花なんて、オレァ初めて聴くぜ。

に、しても色とりどりな花だなあ。

あっ!思い出した!

じゃあまんってえのはぷろしあ(プロイセン)のこったろう、奈穂子サン?

ヘッヘッヘッ。

オレだって奈穂子サンの時代のことはちったあ勉強してんだぜ。

で、今日はこのトンチキありんすが咲いてる安中の話でさあ。

ん?

何か言ったかい?奈穂子サン?

「どうせまた老中職のナントカさんが殺害されただとかナントカ藩がお取り潰しになっただとかの話をするんでしょ」

ヘッヘッヘッ。

んなモン、毎度毎度おんなじ話はしねえぜ、奈穂子サン。

今日はな、駆けっこの話だ、奈穂子サン。

奈穂子サンの時代で言うところの「まらそん」ってえヤツだ。

奈穂子サンの時代の「まらそん」はオレの記憶が確かなら42.195kmのはずだ。

今日話す安中藩の「遠足」は29.17。だから、「まらそん」に比べたら距離は短えわな。

「遠足」は「とおあし」って読むんでさあ、奈穂子サン。

安中藩主・板倉伊予守勝明様。

このお方はまあ若い頃からからだを動かすのが好きなお方でな。奈穂子サンの時代で言う「すぽーつまん」ってヤツでさあ。

で、この板倉様がとんでもねえことを言い出したから安中藩は大騒ぎよ。

板倉様は「50歳以下の藩士に『遠足』の参加を命ずる」なんて言い出しやがった。

しかもそいつはただの駆けっこじゃねえぞ。ヨロイカブトで走るんだ。

奈穂子サン、敷き布団と掛け布団を着て「まらそん」なんて出来るかい?

出来っこねえよな?

それとおんなじだぜ。

でもまあ殿様の御下知とあっちゃイヤだとは言えねえ。50歳以下の藩士98人は16組に分かれて「遠足」にちゃれんじしたってえワケよ。

夜明け前に「よーいどん」で「ごおる」に着いたら朝の8時だとか9時だとか言いやがる。気ィ狂っちまうぜ。

ヨロイカブト着て29.17km。でもよ、奈穂子サン。こいつは意外と安中藩じゃ好評でな。

「いい汗かいた」ってな。

それから走り終えたらお茶と餅が配られた。それがまたウマかった。

ま、ちょっとした距離の駆けっこはからだにいいって言うし。

奈穂子サンもヨロイカブト着て碓氷峠駆けっこしてみるかい?

オレァ嫌だけどな。

今日の練り物には玉ねぎが入ってたぜ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/松平輝高-竹内式部と上州絹一揆-

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いわしってえのはな奈穂子サン、煮付けにして梅肉を添えるとうめえんだわ。梅肉だけにな。

躑躅ですかい?

躑躅見ながら団子を頬張るってえのもいいなあ。

この山躑躅、高崎に咲いているんですかい。

高崎ってえのは館林に近いってこともあって、そこそこのお大名じゃなきゃ藩主にゃなれなかった。かつてはあの間部詮房様が藩主になったこともあった。

で、間部のダンナのずっとあとに松平輝高様が高崎藩主におなりなすった。

輝高様は首席老中(総理大臣)だ。

輝高様が京都所司代だった頃、竹内式部ってえ学者が騒動を起こした。

竹内式部徳大寺公城ってえお公家さんのお抱え学者だった。徳大寺様は桃園天皇の側近よ。

徳大寺様と、徳大寺様といっつもツルんでやがるお公家さんたち10人ばかしがな、おかしなことを企んだんだ。

徳大寺様たちは五摂家が朝廷を仕切ってるのが気に入らなかった。だから、徳大寺様は式部のヤツを使って「五摂家が朝廷をダメにするのです」って桃園天皇に吹き込みやがった。

桃園天皇もまた式部のヤツに吹き込まれるうちにそんな気持ちになっちまって、「五摂家はいらん。天皇親政だ」とかって言い出しちまった。

こうなると五摂家の面々も黙っちゃいねえ。関白・一条道香殿下が所司代屋敷の輝高様に訴え出た。「徳大寺と竹内式部がよからぬことを帝に吹き込んでる」ってな。

最初は輝高様も介入するつもりは無かったんだ。ところがだ、奈穂子サン。関白殿下は輝高様にとんでもねえことを告げ口しやがった。「竹内式部は帝に討幕を勧めてる」ってな。

ここに至って輝高様は徳大寺様とそのお仲間、そして式部のヤツをとっ捕まえて処分した。ま、大火事を小火のうちに消したんだ。さすがだぜ。

で、輝高様は江戸に戻って首席老中におなりなすった。

輝高様が首席老中になって取りかかったのが幕府の収入を増やす政策よ。

上州は質のいい絹の産地でな。この絹に運上かけよう(課税しよう)って話になった。そしたら西上野の絹百姓が清助ってえヤツを旗頭に一揆を起こしちまった。その一揆の連中がだ奈穂子サン、高崎城を囲んじまったってんだからそりゃあもう大騒ぎよ。

まさかてめえの城が一揆の連中に囲まれるなんて思っちゃいねえ。あんまりの「しょっく」に輝高様は心の臓がケイレン起こしちまってそのままぽっくりよ。

ま、一揆の連中は高崎城の城兵に追っ払われたが輝高様はぽっくり逝っちまった。

このあとは松平康福様が首席老中になったってえワケだ。

ん?

どうしたい、奈穂子サン?

田沼意次は?」

じゃ、ちょこっとだけな。

田沼のダンナは嫉妬・やっかみってヤツをよく知っていなすった。

だから、てめえはヒラ老中のまんまで輝高様や康福様を立てたんだ。

いわしは刺身にしてしょうが醤油で食ってもイケるんだぜ。

奈穂子サン、また。