もずの独り言・はてなスポーツ+物置

半蔵ともず、はてなでも独り言です。

奈穂子様/戸田忠真

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蕎麦は江戸前、うどんは上方。こいつァ昔っからそうなんだ。
でもよ、おでんは別だぜ。おでんはやっぱり江戸前よ。だから上方の連中もおでんのことを「かんとだき」(関東炊)って言うんだぜ。



千歳飴ですかい?
七五三が懐かしく思えるくらい、オレァジジイになっちまったからな。宇都宮の千歳飴、今度オレも齧ってみるか。
戸田山城守忠真様。
下野宇都宮7万石の御譜代だ。部屋住みの時分で寺社奉行になったくらいだからな、お上からの気に入られ方ってえのをよーく知っていなすったんだろう。
越後騒動で欠国(空白地)になった高田藩主に任命されたり、御譜代の重鎮にしか任されねえ佐倉藩主になったりもした。
佐倉藩主の頃に播磨赤穂の浅野様が吉良のジイサンやっちまって、浅野様の代わりに勅使接待を命ぜられたのが忠真様よ。
家継公の代に老中職におなりなすった。まあ、いろいろと「きゃりあ」を重ねたからな。老中職に就いて当たり前みてえなトコはあるわな。
家継公が死んで、吉宗公が紀州から八代様として江戸城に来た。吉宗公は八代様に就任早々、奈穂子サンの時代でいう「てすと」をおやりなすった。
「てすと」は吉宗公が老中職の面々に質問する形だった。「幕府の財布のゼニ(予算)はどんぐらいだ?」だとか「御城(江戸城)の櫓の数はいくつだ?」だとか「コメの備え(備蓄)はどんだけあるんだ?」だとか聴いた。
このとき、老中職の面々は5人いた。土屋相模守様、久世周防守様、井上河内守様、阿部豊後守様、そして戸田様だ。
で、「てすと」の結果は散々だった。土屋様以外の老中職の面々は、だあれも吉宗公の質問に答えらんねえ。「存じ奉らず」の連発よ。戸田様のおでこと背中は冷や汗でびっしょりだったぜ。
吉宗公は「てすと」のあとに「間部詮房なら、全部答えられるだろうに」って笑いながら言いなすった。間部詮房ってえ人は家宣公・家継公の側用人で、土屋様たちが吉宗公と結託して追い落としたお方よ。
老中職の面々は「今度の上様は手強い」って思った。居心地悪くなったんだ、役人根性の塊だったからな。
まず阿部様がさっさと辞職した。次に土屋様が年齢を理由に御勇退。その次に久世様が脳卒中、そのあと井上様が御病死。最後まで残ったのが戸田様よ。
「残った」ってよりも、「残してもらった」って言ったほうが正しいな。戸田様も吉宗公同様、綱吉公の「お気に入り」だ。吉宗公も「おまえはクビ」とは言いづらかったんだろうぜ。
まあでもアレだ、奈穂子サン。戸田様は同時代を生きた人たちからの評判は良かったんだぜ。



大根食って不味いおでん屋は話にならねえ。覚えといてくんな。
奈穂子サン、また。