もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/板倉勝静

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コケコッコーをごぼうとしょうゆでじっくり煮るんだ。

こいつがいいつまみになるし、いいおかずになるのよ。

板倉周防守(勝静)様?

奈穂子サン、あのお方はトンチキじゃねえぜ。

確かに新政府から処分は受けたが、ありゃあもっと平和な時代に生まれてりゃあ間違い無く名君ですぜ奈穂子サン。

周防守様はもとは桑名藩の部屋住みでな、名前も松平万之進様って名乗ってた。

ああそうだ。

奈穂子サンのお気づきの通りだ。

周防守様のからだにゃあ徳川の血が流れてる。

いいかい奈穂子サン、吉宗公の次男坊が田安の宗武様。その宗武様の息子が白河翁(松平定信)。白河翁の息子が桑名の定永様で、その定永様の息子が周防守様だ。ま、早ええ話が周防守様は吉宗公の玄孫ってことでさァ。

その吉宗公の玄孫が備中松山5万石の板倉家に婿養子に入って備中松山藩を相続なさった。備中松山藩主・板倉周防守勝静様の「でびゅー」だ。

周防守様は藩主になると財政の建て直しに手ェ付けた。何せ5万石の小せえ御譜代だ。貧乏に借金がのしかかって青息吐息よ。で、周防守様は山田方谷ってえ偉い学者を備中松山に招いたんだ。この方谷先生の教えに沿ってやったら備中松山藩の財政は建て直って軍隊まで最新式に出来た。方谷先生も大したモンだが、方谷先生を起用した周防守様も人を見る眼があったってことでさァ。

藩は方谷先生がいるから安心ってえことで、周防守様は幕政に専念したんだ。周防守様は優秀なお方でな、奏者番兼帯寺社奉行に任ぜられた。あの阿部伊勢守(阿部正弘)様も奏者番兼帯寺社奉行のときに結果を出して首席老中(総理大臣)だ。でもよ奈穂子サン、周防守様は掃部頭様(井伊直弼)とソリが合わなかった。安政の大獄ンときにな、周防守様は厳しい処分に反対し続けた。そしたら奈穂子サン、あの赤牛、「てめえはクビだ」って周防守様を罷免しちまった。

罷免されて少しして掃部頭様が首もがれると、周防守様は奏者番兼帯寺社奉行に復職しなすった。幕府は反井伊の連中で握られてるから、周防守様はそのまま老中職まで出世しなすった。さらに慶喜公が将軍になると首席老中になったんだから、大したモンだぜ。

ま、平和な世の中ならこれでめでたしめでたしなんだがな、奈穂子サンも知っての通り、もう幕府はどうにもならねえところまで追い詰められてた。周防守様としては幕府は店仕舞にするとしても徳川ってえ家は守んなきゃなんねえ。そンで奈穂子サン、周防守様は土佐の後藤象二郎と一緒になって大政奉還しなすった。

大政奉還までは良かったんだがな、向こうには例のあの戦争屋(西郷隆盛)がいた。あの戦争屋はあの手この手で戦争に持ち込んだ。これが鳥羽伏見の戦いから始まる戊辰戦争だ。

奈穂子サン、周防守様はどうしてもあの戦争屋が許せなかった。穏やかに、徳川の家を残しつつ新しい世の中にって思ってやった大政奉還を、あの戦争屋がぶち壊しにしちまった。周防守様は江戸無血開城のあと新政府軍にとっ捕まって宇都宮に幽閉されたんだがな、幕府の歩兵奉行だった大鳥圭介サンに助け出されて旧幕府軍の参謀になった。奈穂子サン、こいつァあの戦争屋に対する憎しみ以外の何物でも無えぜ。

周防守様は宇都宮・会津・仙台と転戦して五稜郭まで行った。だがな奈穂子サン、五稜郭に方谷先生の使いの者がやって来てな、「これ以上抵抗されると藩が取り潰されてしまいます。投降して下さい」って言いやがった。確かに備中松山藩は周防守様が宇都宮に幽閉されたあと、藩に残った連中が新政府軍と交渉して存続が認められた。こうしたいきさつがあるから方谷先生としては周防守様に投降を呼びかけたってワケだ。

藩の家臣たちや方谷先生の顔を思い浮かべてな、周防守様は東京で新政府軍に自首しなすった。これが明治2年5月26日のこった。新政府はこれといった裁判もしねえで8月15日に周防守様を安中で終身禁固刑にするって処分した。

その後、明治5年になって周防守様は赦免された。ついでに言うと、あの大鳥圭介サンも同じ年に赦免だ。

明治9年、赦免された周防守様は上野東照宮の祀官に任ぜられてな。そのあとは旧領や山陽地方の発展のために八十六銀行(いまの中国銀行)設立のために奔走しなすった。

明治22年4月6日、周防守様は亡くなられた。

享年66。

慶喜公が亡くなられるのはこのずっとあとの話でさァ。

奈穂子サン、勝の旦那(勝 海舟)は周防守様について「生まれて来る時代が悪かった。もし、泰平の時代だったら白河翁を超える名君だったに違えねえ」って話てる。勝の旦那は周防守様のおかげで軍艦奉行になれたからな。

コケコッコーとごぼうの煮物にゃ生卵も合うんだぜ。

奈穂子サン、また。