もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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いずみ江戸日記/千 利休の石灯籠

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今日は茶の湯ですかい、いずみサン?

その皿の上は落雁でしょうよ。

抹茶に落雁じゃ今夜は酒飲めねえな。

利休居士?

いずみサン、何だってまたあんなお方のことを?

いや、別に話すのはいいんだ。あのお方の話なんざいくらしたところで奉行所にゃしょっ引かれねえが、いずみサンみてえな若いお嬢さんが聴きたがる話でも無えモンで。

ま、いずみサンの点てた茶なんざ滅多に飲めねえし。

ようござんしょ。

じゃ、ちょいとお耳を拝借しますぜいずみサン。

いずみサンが知りてえのは利休居士が何で腹ァ切ったか、でごぜえやしょう?

いずみサン、こいつァ平戸藩の連中から聴いたんだがな、どうも利休居士は朝廷、いや、天皇家に不遜のことがあったらしくてな。

いずみサンは利休居士切腹の直接の理由は大徳寺の山門の例のあのでっけえ木像の件だって思ってるんだろうけど、平戸藩の連中の話だとどうも違うみてえでな。

確かに理由の半分はいずみサンの思ってる通りなんだ。大徳寺の山門をもしミカド(天皇)が通ったとき、ミカドは利休居士の木像に頭ァ下げることになる。だからあの木像はダメだ、ってな。

でもよいずみサン、太閤や石田治部(三成)が罪に問うたのはそこじゃ無えんだ。

利休居士はな、光孝天皇陵の石材を勝手に切り取っててめえの庭の石灯籠にしちまったんだ。ミカドの御陵を切り取っちまったんだよ、利休居士は。

いずみサン、信長公も太閤も、それにあの殺生関白の秀次公も、みんな朝廷に献金してるんだ。理由はただ一つ、天皇家のもとで日ノ本は一つであるべきだって思いからよ。

太閤は大徳寺の一件のあと、石田治部に利休居士の行状・行跡を事細かに調べさせた。そしたらいずみサン、光孝天皇陵のことが発覚したのよ。

太閤はな、大徳寺の一件だけなら目ェつぶる気でいたんだ。もし本気で殺そうって思ってたら石田治部の度重なる告げ口を理由にさっさと殺してらあ。

いずみサン、天皇家への尊崇は信長公からの一つの流れだ。そいつを利休居士は踏みにじった。切腹の表向きの理由は大徳寺の木像だが、本当の理由は光孝天皇陵石材切り取りだ。

だがないずみサン、石材切り取りを切腹の理由にしちまうと、太閤自身も利休居士に対する「監督不行き届き」に問われちまう。そンで太閤は切腹の理由を大徳寺の木像ってことにしたのよ。

茶人に切腹。いずみサン、光孝天皇陵の一件がどれだけ太閤に衝撃与えたか、これでわかるだろう?

その後、利休居士が作った石灯籠は持ち主を転々としたんでさあ。

はっきりと出て来るのは綱吉公の末期で、ありゃあ確か大坂の大商人で淀屋古庵が大枚はたいて買い取ったんだが、セガレの竹五郎の放蕩の罪で欠所にされちまった。そのあと江戸銀座のナントカってえ商人が買い取ったがこいつもやっぱり罪あって欠所になっちまった。

で、いずみサン、ここで平戸藩が出て来るのよ。

平戸藩松浦家の一門の松浦ナントカが浅草に屋敷建ててな、そこにこの石灯籠を置いたのよ。そしたら何年かしてその松浦ナントカは幕府から「行いよろしからず」ってことで平戸へ帰国させられた。松浦ナントカは平戸藩松浦家の家系図から抹消されちまったくらいだからな、相当なことがあったんだろうぜ。

松浦ナントカが平戸へ強制帰国になったあと、石灯籠は江戸広尾の普妙寺の持ち物になってな。そンでようやく石灯籠の居場所が落ち着いたのよ。それが家重公の頃だ。

利休居士を切腹に追いやった石灯籠。

まあアレだいずみサン、それがミカドであれ誰であれ、やっぱ人様の墓石切り取っちゃいけねえな。

結構な御点前でございやした。

抹茶に落雁じゃ、今日はもう酒飲めねえな。

いずみサン、また。