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いずみ江戸日記/徳川吉通・五郎太父子の死

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いずみサン、そいつはまたうまそうなあじだ。

江戸じゃそんな大振りでうまそうなのはなかなか見かけませんぜ。

で、いずみサン、そいつを天麩羅にするんですかい?しその葉と一緒に?

こいつァうまそうだ。

尾張の吉通公と五郎太坊っちゃん

そいつァいけねえいずみサン。吉通公と五郎太坊っちゃんのことなんざ喋ったら奉行所しょっ引かれちまう。

いずみサン、悪りいこたァ言わねえからそんなお方にゃあ興味持たねえこった。

エッ?

いずみサン、こいつァ剣菱じゃねえか。しかも一升だ。

わかりやした。

剣菱まで持って来られたんじゃあイヤとは言えねえ。奉行所行くときゃあ二人連れですぜいずみサン。

じゃ、ちょいとお耳を拝借しますぜいずみサン。

ああそうだ。

いずみサンの睨んだ通り、吉通公も五郎太坊っちゃん紀州に一服盛られたんですぜ。

一服盛った理由は、八代将軍の座をもぎ取るためだ。

いずみサン、家宣公には鍋松君がいたんだが、鍋松君はまだ3つだか4つだかのがきんちょでな。家宣公は死の床でそのことを案じてなすった。

いずみサンの時代とオレたちの時代じゃ「小児医療」のれべるがまるっきり違うんだ。オレたちの時代はな、5人生んだら2人育てばそれで良しとされてたのよ。そのくらい、「小児医療」のれべるが低かった。

家宣公は鍋松君が成長しなかったときのことを案じられて側用人の間部様(詮房)と御用学者の新井のオッサン(白石)に遺言遺したのよ。その遺言が「鍋松に万一のことあらば、尾張吉通をもって八代将軍とするべし」って遺言だった。この遺言は表にゃ出さねえ遺言だったが、間部様と新井のオッサンは首席老中の土屋相模守様(政直)には伝えたんだ。何せ土屋様は首席老中だ。万一遺言を実行するとなったときに一緒に動いてもらわなきゃなんねえからな。

その土屋様が、家宣公が死んですぐに江戸赤坂の紀州屋敷に走って遺言の中身を吉宗公に御報告よ。土屋様は側用人制度が大っ嫌いだったからな。鍋松君にもしもがあって遺言通りになったら吉通公も側用人制度を続けるこたァ誰でもわかってたしな。そンで紀州に相談して遺言潰しを謀ったのよ。

側用人制度廃止と引き換えに、八代将軍を」

こう言われりゃあ吉宗公だってその気にならァな、いずみサン。

まず、正徳3年の7月26日に吉通公が急にポックリだ。まだ25だってえのにな。家宣公が死んでから1年経つか経たねえうちのことだった。晩メシ食っていきなり血ィ吐いてそのまんま死んじまった。ま、誰の眼から見ても一服だわな。

これで家宣公の遺言対象者は死んだんだがな、吉通公には五郎太坊っちゃんが残ってる。これじゃ甲府の連中(間部・新井グループ)が遺言解釈し直して「八代将軍は五郎太君」って言い出しかねねえ。

吉宗公は心を鬼にした。

吉通公がポックリ逝って三月と経たねえ10月18日、今度は五郎太坊っちゃんが急にポックリだ。まだ3つの坊やだったんだがな。

紀州尾張の八代将軍争いはこれで決着だ、いずみサン。あとで八代将軍を吉宗公にってなったとき、その理由のひとつが「家宣公の御遺言に吉通公の名前はあるが、継友公の名前は無い」だった。継友公は吉通公の実弟だが実子じゃねえからな。五郎太坊っちゃんだったら「吉通公の御実子」ってえ理屈を付けられたかも知れねえが、いったん分家した弟が兄貴の跡継いだってそいつは正統性に欠けるってモンだ。いずみサンの時代でいう「レジテマシー」ってヤツだな。

吉宗公は晴れて八代将軍に。土屋様との約束通り、側用人制度は廃止された。

あじとしその葉が面白れえ風味を出すんだな。

こんな天麩羅なら一升ペロリだ。

いずみサン、また。