もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/絵島生島事件

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北陸からな、ぶりが届いた。

こいつは何といっても刺身だ。ぶりはな、寒けりゃ寒いほど脂が乗るのよ。

白井みよ。

みよはどんな字書くかは知らねえ。

綺麗なお嬢さんだった。

もとは疋田みよって名乗ってた。親父は甲府藩士だったんだがな、みよが4つの頃に死んだ。酒と色に溺れたんだ。

みよのオフクロはみよを連れてお旗本の白井平右衛門と一緒になった。

二度目の縁組みだったからな、ちょいと立場が弱かった。500石のお旗本の稼ぎなんかタカが知れてらあ。だから、みよにいかがわしいことをさせて銭にした。連れ子の立場だ。イヤだとは言えねえ。みよはオトコの愚かで醜いとこをそのからだで知った。義父もクズなら客もクズ。所詮オトコなんざそんなモン。みよはそう思った。

そんなみよが、どういうワケかは知らねえが大奥に仕えることになった。

みよは30歳で大奥御年寄になった。御年寄ってえのは、大奥の執政職のこった。「大奥御年寄絵島」ってえ名前は、ここで出て来る。

みよは月光院様とウマが合った。月光院様は家宣公の御側室でな、家継公の御生母よ。月光院様はもとの名前を於喜世っていった。於喜世の親父は加賀藩に仕えてたんだがな、ワケあって浪人して江戸に出て来た。そんなもんだから、於喜世は浅草で町人と一緒に育った。

だからかも知れねえな。月光院様とみよはウマが合った。そんなワケでみよは月光院様のために大奥を仕切った。

だがな、これを面白く思わなかったのが家宣公の御正室の天英院様(近衛煕子)よ。天英院様は御正室だがお世継ぎを産めなかった。だから家継公の代では大奥は月光院様の天下だった。

同じ頃、幕府では月光院様と仲良しの間部越前守様(詮房)の天下だった。これを面白く思わなかったのが首席老中の土屋相模守様(政直)よ。

天英院様は月光院様を取り除きてえし、土屋様は間部様を取り除きてえ。ここで思惑は一致した。

土屋様は目付の稲生次郎左衛門(正武)を使ってみよを罠にかけた。みよは月光院様の片腕だ。みよを潰せば月光院様も間部様もどっちも痛めつけられるってな。

山村座生島新五郎ってえ役者がいた。そりゃあもう、目鼻立ちのキリッとしたいいオトコでな。みよは度々城の外に出ちゃあ山村座の芝居を見に行ってた。ホントはいけねえんだがな、幕府は目ェつぶってた。

芝居が終わるとみよは必ず新五郎と二人っきりで一刻過ごしてから城に帰った。奈穂子サンの時代でいう「でえと」ってえヤツだ。

ある日、この「でえと」が長引いて、帰りの門限を破っちまった。この門限破りを稲生のオッサンは使った。

稲生のオッサンは門限破りの10日もあとになってから問題にしやがった。わざと10日空けたんだ。10日の間に罪をでっち上げるためにな。

門限破りが問題になって、みよは小伝馬町の牢屋に放り込まれた。牢屋の中でみよは拷問を受けた。「生島新五郎と寝たんだろう」ってな。

同じ頃、生島新五郎奉行所で拷問を受けてな。で、生島は耐えきれなくなって「絵島様と寝ました」って自白した。

稲生のオッサンはみよに「生島は白状したのだ。おまえも白状して楽になれ」って言った。そしたらみよはな、「アタシは新五郎さんとは一度も寝ちゃいないよ!寝たら新五郎さんはアタシをカネで買った汚いオトコどもと変わらなくなっちまう!!」って怒鳴り返した。

本当に、気持ちの底からの「好き」だったんだろうぜ。義父の都合でオトコ相手にいかがわしいことをさせられて来て、せめて生島新五郎には醜く汚いオトコは見ないで、一人の乙女として生島をだいじに想いたかったんだろう。

ま、「寝た」っていう確かな証拠は無えから、死罪は免れた。みよは信州高遠に流罪、生島は三宅島に流罪になった。この騒動で山村座はお取り潰しだ。

みよは「元大奥御年寄・絵島」ってえ名前で28年後に高遠で死んだ。赦免されることも、生島と再会することも無かった。

生島は「絵島が死んだから」ってえことで吉宗公が赦免しなすった。生島はもう70過ぎのジイサンだ。生島は江戸に戻った2年後にみよとの思い出を抱きしめながら小網町の粗末な長屋で死んだ。

みよにとって、唯一の救いは自分にいかがわしい真似事をさせた義父の白井平右衛門がみよの連座ってことで打ち首になったことだな。

この世にはオトコとオンナしかいねえ。

でもよ、みよと生島はあんまりに悲し過ぎるぜ。

「ここで死んでも欠片さえ、知らせは届かないほど遥か」

高遠と三宅島。

みよは28年間、思い出の中で生き続けた。

こんなに冷える日は、ぶり大根もいいなあ。

奈穂子サン、また。