もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/お志賀のこと

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ああ、こいつァいつもの奈穂子サンの蕎麦だ。

貝柱と菜っ葉(ほうれん草)がたっぷり入った蕎麦だ。

海老やらかき揚げやらもいいんだが、やっぱしオレァ奈穂子サンの蕎麦が一番好きだ。

おしか?

ああ、あのお志賀のことですかい、奈穂子サン?

お志賀は家定公のたった一人のお手付きでさァ。

奈穂子サンも知っての通り、家定公はちょいとおつむがアレだった。奈穂子サンの時代でいう「知的障害」だった。

おつむがアレだったんで御台所(篤姫)とは夫婦の真似事なんざ出来なかったんだがな、どういうワケがお志賀とは寝た。ひょっとしたら、お志賀が布団の中で家定公にまぐわいの「いろは」を教えたのかも知んねえな。

お志賀は大身の旗本の娘ってえ言われてんだが、出自がはっきりしねえんだ、奈穂子サン。ま、お志賀が生きた時代が時代だけに実の親が名乗れなかったのかも知れねえな。新政府の目ェ気にしたんだろうぜ。

ついでに言うとお志賀は生まれた年がわからねえ。だから年号が明治になったあとに死んだが享年もわかりゃしねえ。

わかっていることは家定公の唯一のお手付きだったってえこと、家定公薨去江戸開城まで家定公の位牌を一人で守り抜いたこと。それと、これはちょいと奈穂子サンの前じゃ言いづれえんだがな、その…お志賀はな…ブサイクだった。

ブサイクだが、お志賀は家定公の「はーと」をがっちりつかんだのよ。だからこそ、御台所と寝なかった家定公がお志賀とだけは寝た。

お志賀の風貌より母性だったってこったろうぜ、奈穂子サン。家定公はおつむがアレな分強烈な甘えん坊だった。薩摩の御分家に生まれて元服した男子の姿を見て育った御台所にゃあ理解出来ねえお方だったんだろう、家定公は。でもよ奈穂子サン、お志賀はそんな家定公を受け止めた。そいつは色事じゃねえ、母性だ。母性で家定公を受け止めたんだ。

お志賀もブサイクなモンだから、家定公以外が将軍だったら見向きもされずに大奥の隅っこでひっそりと死んだかも知れねえが、家定公が将軍だったおかげで将軍お手付きとして御台所と張り合うところまで出世した。

そんなお志賀だ。家定公薨去後はただ一人、ひたすら家定公の位牌を守り抜いた。筋通すのに美人もブサイクも関係無えぜ、奈穂子サン。

江戸無血開城後、東京と名を変えた城下に移り住んだお志賀はひっそりとこの世を去った。47か48だったって言われてるが、本当の享年は誰にもわからねえ。谷中に葬られたなんて話だが、これだって本当かどうかわかりゃしねえ。

ま、一つはっきり言えるのは、お志賀は家定公を受け止めて、家定公はお志賀をしあわせにしたってえことだな。

いいじゃねえか、それで。

奈穂子サン、考えてもみろよ?慶喜公はたくさんのいのちを損ねといててめえはやれ大阪だ、やれ上野だって見苦しく逃げ回った。家定公はおつむはアレだったがお志賀をちゃあんとしあわせにしたぜ。そりゃ、どっちが征夷大将軍らしかったかって言われりゃあそれは慶喜公だが、家定公は慶喜公とは違ってたくさんの不幸はこさえなかったぜ。しあわせにしたのはお志賀たった一人だが、そのたった一人で十分だぜ。オレァそう思わァ。

家定公はおつむはアレだったが、器用なお方だった。徳川十五代で「かすてーら」を作れた将軍は家定公ただ一人だ。

うめえ蕎麦だった。

これで気分良く正月迎えられるぜ。

奈穂子サン、また。