もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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いずみ江戸日記/松倉重利-島原の乱-

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いずみサン、その黄色いうどんはいずみサンの時代に「らあめん」って名前で呼ばれるモンだ。

オレたちの時代はコケコッコー1羽丸ごと使って出汁取って、塩で味を整えた。いずみサンの時代で言う「鶏ガラ」ってえヤツだ。

もっとも、オレたちの時代にその黄色いうどんを食ったのは水戸のジイサンくらいなモンだけどな。

いずみサン、そいつは松倉長門守(勝家)の晒し首の絵じゃねえか。

何でこう、いずみサンは人が持たねえようなアブねえモンばっかし持つんだろうなァ。

その絵を持って来るってこたァ、松倉長門守の話をしてくれろってことでしょうよ。

わかったよ。

わかりやしたよ。

じゃ、ちょいとお耳を拝借しやすぜいずみサン。

へ?

松倉長門守その人じゃなくて、会津若松にお預けになった弟のことだ?

ああ、ありゃあ確か松倉右近(重利)ってえヤツで、あとで会津若松で自害したんですぜ。

そんなヤツの話聴いてどうすんのか知らねえが、いずみサンの頼みじゃイヤとは言えねえ。

松倉右近も島原の一件が無けりゃあ島原領のどっかに分知してもらって小せえながらも殿様になれたかも知れなかったんだがな、島原藩松倉家は島原の一件の責任取らされてお取り潰しだ。

島原の一件の原因は2つだ、いずみサン。

1つは寛永11年の凶作よ。この年の島原藩はろくに作物が育たなかった。そこへ、トンチキ長門守が豊作同様に年貢を取り立てた。年貢が払えねえとそこン家の家族を人質に取った。ったく、ひでえことしやがる。それでも年貢が払えねえと、お百姓を容赦無く殺した。こりゃあもう狂気の沙汰だ。

もう1つが寛永14年のこった。口の津村の庄屋の与左衛門の女房を年貢のカタに人質にした。で、島原城内で水責めにした。こンとき、与左衛門の女房は身ごもっててな。そんなからだの女房をだいずみサン、トンチキ長門守は6日間も水責めにした。女房は腹の子もろとも死んじまった。

与左衛門の女房が殺された年の10月25日のこった。島原藩の領民は代官所を襲って蜂起した。これが島原の一件の始まりよ。この蜂起した連中にキリシタンの連中と小西浪人や加藤浪人が合流した。その数は4万人近くまで膨れ上がった。いずみサン、松倉長門守はキリシタンにもひでえことしたからな。キリシタンの信者のおでこに「きりしたん」の焼き印を押したり、手足の指をちょん切ってから打ち首にしたりしたんだよ。ひでえのは生きたまま炭火の上で「ばーべきゅー」にして焼き殺された。

こんなことで、原城に立て籠った連中は頑強に抵抗した。幕府じゃ伊豆の旦那(松平信綱)を総大将にして原城を攻めさせた。原城寛永15年の2月28日に落城、天草四郎以下一揆軍3万人以上が撫で斬りにされた。

5月13日、江戸に戻った伊豆の旦那は家光公と戦後処理について話し合われた。その場で家光公は「乱の責任は、誰にある?」って伊豆の旦那に聞いたんだ。そしたらないずみサン、伊豆の旦那はたった一言、涙が止まらねえ眼で家光公の顔をじっと見つめてたった一言、「松倉長門でござる」ってな。普段は饒舌な伊豆の旦那が、こンときばかりは絞り出すような声で涙ァ流しながらたった一言「松倉長門でござる」って言いなすった。伊豆の旦那もつらかったんだろうぜ、いずみサン。何せ3万人以上も撫で斬りにするいくさだったんだ。まともな神経じゃやれねえよ。そのつらさはガキの頃から「竹千代君、長四郎」って呼び合った同士だからこそ理解出来たんだ。「松倉長門でござる」涙ながらのたった一言から家光公は全てをお察しなすった。

家光公の腹はこれで決まりだ。松倉長門守は江戸で打ち首、弟2人は罪人としてお預けってえことになった。松倉長門守は肥前島原4万石の大名としてじゃなくて罪人として首を討たれた。そんなヤツァオレたちの時代じゃこいつ1人だけだ。

で、こっからがいずみサンの知りてえ松倉右近の話だ。松倉右近は初め讃岐高松の生駒家にお預けになったんだが、生駒家がお取り潰しになって会津藩に預け替えになった。肥後守様(保科正之)はお優しいお方だからな、松倉右近を露骨な罪人扱いにゃしなかった。

家光公が薨去して、あれァ確か承応3年だったな。幕府から会津藩に「松倉右近を赦免する。以後、松倉右近会津藩で召し抱えるように」って御沙汰が下った。肥後守様としちゃあ御沙汰通り松倉右近を召し抱えようとしたんだがな、当の松倉右近が承知しねえ。いずみサン、この松倉右近も兄貴並みのトンチキでな。てめえが罪人だってえことを忘れて「城持大名にしてくんなきゃイヤだ」ってえ駄々こねた。馬鹿言っちゃいけねえや。肥後守様も説得したんだがな、トンチキ右近のヤツァ納得しねえ。しょうがねえから肥後守様も「旗本でもいいから、直臣にしてやってくれろ」って幕府の連中に相談してみたんだがダメだった。

で、赦免から2年後の明暦元年だ。望み叶わねえってハッキリわかった松倉右近会津若松で黙って腹切って死んだ。35だった。右近のヤツァ腹切って死んだが、右近の子孫は旗本に取り立てられた。

もう1人の弟・三弥は島原藩お取り潰しが決まったあと行方知れずになった。

トンチキが藩主になると、ろくなことにならねえ。トンチキは打ち首、弟は腹切りに行方知れず。殺された島原の領民のバチが当たったんだな。

黄色いうどんは水戸のジイサンの話だと清国じゃなくて明国の料理なんだとよ。

で、その「れしぴ」は長崎から水戸のジイサンに伝わったってえワケだ。

オレァ黄色いうどんよりもそばのほうが好きだけどな。

いずみサン、また。