もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/稲葉紀通一件-腹鉄砲事件-

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暖けえ日が続くなァ、オイ。

こんなにポカポカしてるとついウトウトしちまっていけねえな。

で、今日は弥七のヤツが季節はずれのぶり大根なんか持って来やがった。旬から逸れたモン食ってると水戸のジイサンに説教されちまうぜ。

このぶりを腹いっぱい食いてえってな、トンチキお大名が駄々こねた。

そのトンチキの名前は稲葉淡路守紀通。丹波福知山4万5千石のお大名だ。

5歳で親父の跡嗣いで大名になったボンボンでな。ボンボンだからガキの頃からやりたい放題よ。そこへ来てこのトンチキの義理の叔母が春日のバアサン(春日局)なんだから始末に負えねえわな。このトンチキは松平下総守様(松平忠明)のお姫さんを嫁にもらってな。ますますトンチキぶりが悪化したのよ。

どうトンチキだったかって?よくぞ聞いてくれたぜ奈穂子サン。

このトンチキはな、何の罪も無えお百姓とその家族を生き埋めにして殺したんだ。「桶伏せ」って言ってな、首から下を生き埋めにして頭から桶を被せて時間をかけて死なせる惨たらしいやり方でお百姓一家を殺した。他にも突然火縄で撃ち殺された家臣や領民がいてな。そりゃあもう福知山のご城下は大騒ぎよ。

それでとうとう撃ち殺された領民の身内が京都所司代に訴え出た。京都所司代の板倉様(重宗)は若狭小浜の酒井家に「淡路守気違いにつき用心されたし」ってえ手紙を書いた。手紙を受け取った酒井忠朝様はすぐさま手紙を父上の讃岐守様(酒井忠勝)に送りなすった。

小浜と福知山は近いからな。讃岐守様も「これは放って置けねえ」ってことで福知山藩の江戸留守居を御城(江戸城)に呼びつけてな。そンで「淡路守の様子を見て来い」ってお命じになった。

そうしてるうちにもトンチキのヤツのイカレっぷりはますます「えすかれえと」していった。トンチキのヤツは丹後宮津藩の京極高広様に「ぶり食いてえから、百匹用意しろ」って無茶を言った。

高広様も「こんなトンチキの言うこと、誰が聞くもんか」って思ったんだがな、何せ相手は春日のバアサンの親戚だ。断るワケにもいかねえから嫌々ぶり百匹を用意した。が、ここからが高広様のへそ曲がりなトコでな。その百匹のぶりの首をことごとく刎ねて福知山に送りつけた。

首無しぶり、百匹。

そりゃあトンチキのヤツ、腹ァ立てたぜ。で、ある日のこと、宮津藩の飛脚らしき赤フンが福知山のご城下を走ってた。これを城の天守閣から見ていたトンチキは火縄でこの飛脚をズドンとやった。「スッキリしたぜ」ってな。

ところがだ奈穂子サン、この赤フンのオロク(遺体)を改めたらこいつが宮津藩じゃなくてヨソの藩の飛脚だった。これが関西諸藩に知れ渡ってな。「稲葉淡路守、発狂乱心」って大騒ぎになった。

ちょうどこの頃大坂にいた阿部対馬守様(重次)は家光公に「稲葉淡路守、気違いにつき福知山領を治め難く」ってハッキリと「気違い」って手紙に書いててな。まあな、奈穂子サンの時代は「キチガイ」って言葉は使っちゃいけねえみてえだが、オレたちの時代は気違いには「気違い」ってハッキリ言うからな。

そうこうしてる間にトンチキのヤツはまた罪の無え男女6人を火縄で撃ち殺した。そンで隣の篠山藩から「もう限界だ。福知山藩を取り潰してくれ」って苦情が出てな。とうとう幕府も福知山藩お取り潰しを決断したのよ。

福知山城を包囲されたトンチキは「うがーっ」って叫んで火縄でてめえの腹を撃ち抜いて死んだ。これで福知山藩はお取り潰しよ。

トンチキには大助ってえ赤ン坊がいてな。祖父の下総守様が「成長したら大名にしてやってくれ」って家光公に頭ァ下げた。家光公も「下総守が頭を下げて頼むなら」と成長したらどこかの地に1万石を与えようとしたが大助は4つで疱瘡にかかって死んじまった。トンチキの血筋はこれで絶えた。

ぶりは煮てよし刺身でよし。でもよ、首無しぶりは御免だぜ。

奈穂子サン、また。