もずの独り言・はてなスポーツ+物置

半蔵ともず、はてなでも独り言です。

奈穂子様/藤井紋太夫一件

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「関東の背開き、上方の腹開き」

江戸じゃ鰻は背開き、上方は腹開き。奈穂子サン、覚えといてくんな。

りしまきあぬんむらりあ?

何でえ、またトンチキな名前の花じゃねえか。

で、こいつが水戸に咲いているんですかい、奈穂子サン?

こないだ水戸様んトコにいる辻 平内こと風車の弥七と行きつけの鰻屋で一杯やったんだがな、弥七のヤツ、とんでもねえことを話してたな。

奈穂子サン、水戸の御隠居見て、どう思う?

助の字格の字連れてニコニコ笑ってお出掛けしてるジイサンにしか見えねえだろう?

ところがどっこいあのジイサンは家老を首を一突きで仕留めて殺すおっかねえジイサンなんだ。

で、何で家老を殺したか?そいつを弥七の口から聴いたのよ。

家老ってのは藤井紋太夫ってオッサンでな。

光圀公・綱條公と続けて仕えた名家老だ。

この藤井のオッサンを水戸のジイサンが殺しちまったんだが、世間一般に理由がはっきりしねえんだ。だから、「何でてめえの手を汚して…」ってトコに弥七のヤツが鰻屋でオレに話してくれたのよ。

藤井のオッサンは、どうも綱條様とうまくいってなかったんじゃねえかな。もともと、綱條様は水戸のジイサンの子供じゃねえんだよ。甥っ子なんだ。水戸のジイサンにはな、頼重様って兄貴がいた。ところがこの兄貴は「御家の事情」で水戸藩の相続が認められなかった。ま、いくら何でも部屋住みじゃ可哀相だってんで、讃岐の高松に12万石与えて大名にしてやった。水戸のジイサンはこれをずっと気にしてた。だから、ジイサンは隠居するにあたっててめえの息子の頼常を高松藩に出して頼重様の息子・綱條様を水戸に引き取った。「筋を通す」ってな。

ただ、藤井のオッサンは「頼常様を水戸藩主に」って思ってたらしいんだ。

藤井のオッサンは、どうもこの件を柳沢美濃守(吉保)に持ちかけたみたいでな。柳沢のヤツも「藤井どののお好きなように」って返事した。

これを水戸のジイサンが気づいた。

水戸のジイサン、筋の通らねえことは大嫌いだ。だから「生類憐れみの令」のときも野良犬何十匹も殺して柳沢屋敷の庭に放り投げたくらいだ。

藤井のオッサンの企み通り綱條様の隠居、そして頼常様の水戸藩相続なんて、あのジイサンには絶対認められねえ。それでジイサンは腹を決めた。

ジイサンは側の者に「紋太夫を呼んで参れ」って命じた。そのときジイサンは「忙しければすぐに来なくてもよいと伝えよ」って言った。ここがミソで、そういうふうに言えば藤井のオッサンはすっ飛んで来る性格だってジイサンはわかってたからな。

案の定、藤井のオッサンは駆けつけて来た。

と、ジイサンは頭を下げてるオッサンの頭を足で挟んで首を一突きよ。

たった一突きで仕留めやがった。たいしたジイサンだ。

で、ジイサン、側の者に「遺体を片づけろ」ってな。いつも通りのあの笑顔でさらっと言った。

側の者は藤井のオッサンが死んだあとに部屋に来たもんだから「御老公様、これは…」って聴いたら、ジイサンまたニッコリ笑って「口論になってな。それでつい、カッとなって殺してしまった」って。

ま、弥七から聴いた話をまとめるとこんな感じになる。

弥七も驚いたって言ってたな。「まさかあの御隠居が人を殺めるなんて…」ってな。

今度は飛猿と三人で鰻を突っつくか。

蒲焼きには辛口の冷やが一番だ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/井伊の赤備え

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たけのこの煮物がウマい季節になったなあ。

あれはな、からし醤油で食べるとよりウマくなるのよ。

信玄公ですかい。

武田軍はみんな真っ赤っ赤だったから「武田の赤備え」なんて呼ばれた。その「赤備え」を受け継いだのが井伊掃部頭様(直政)だ。

本能寺の変のどさくさに紛れて甲斐を乗っ取った権現様は武田の遺臣をみんな雇い入れた。で、この旧武田の連中は井伊様の軍に組み込まれた。

このときから、「武田の赤備え」は「井伊の赤備え」に変わったんだ。井伊様はいつでも先鋒だったからな。敵の連中もあんな真っ赤っ赤だとすぐに気付くんだ、「井伊の赤備えだ」ってな。

いつでも先鋒であることの見返りは近江彦根35万石だった。御譜代でこんな大っきな領地もらってるのは井伊様だけだ。いいかい奈穂子サン、大炊頭様(土井利勝)は下総古河16万石、雅楽頭様(酒井忠清)は上野厩橋(のちの前橋)15万石だぜ?

これはもう「いのちの保証費」以外の何物でもねえぜ。先鋒と殿軍は討ち死にと隣り合わせ。いくさってえのはそういうモンよ。

井伊様は烏頭坂の戦いで島津軍の鉄砲玉が脚に当たってな。その傷がもとで死んじまった。それでも井伊様は生前権現様に「島津を取り潰すのはおやめ下さい」って頼んでる。いのちのやり取りをしたもの同士の「友情」ってヤツかも知れねえな。ヨロイも真っ赤ならこころも真っ赤。井伊様は男の中の男だぜ。

権現様もこの頼みを飲んで島津家はお咎め無しにした。ただまあ権現様の死後、幕府は薩摩藩をえらくいじめ抜いたからな。薩摩いじめが止んだのは家斉公のカミサンが島津家から輿入れしたあとだ。

実はな奈穂子サン、武田家は滅んじゃいねえのよ。大名としての武田家(勝頼の血統)は天目山できれいさっぱり滅んだが、勝頼の兄貴だか弟だかの血筋は残っててな。子孫は幕府の高家になった。大名にはなれなかったんだな。

もとの「赤備え」は万石以下、新しい「赤備え」は彦根35万石。ちょっと皮肉な話だわな。

たけのこはおかずに良し、つまみに良しだ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/藤堂高虎

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オレたちの時代は「とろ」なんて食わなかった。

あんなとこは捨ててたんだ。

ま、時代が変われば食べ方も変わるんだろう。

藤堂和泉守高虎様。

権現様から信用されて伊勢津32万石を与えられた。津藩は伊賀一国に伊勢国の一部を加えた藩でな。立派な国持大名よ。

高虎様は7人の殿様に仕えた。5人目が大和大納言様(豊臣秀長)、6人目が太閤さん、そして7人目が権現様よ。

一人の武将が主人を変えるときってえのは、たいていが「もっと禄を食んでいい暮らしがしてえ」だとか「あの殿様はいけすかねえから」だとかいう身勝手からなんだがな、高虎様はちょいと違った。高虎様は「家来に腹いっぱいメシ食わしてやりてえ」って理由で主家をコロコロ変えた。

高虎様は奈穂子サンが思い浮かべるような「お殿様」じゃなかったんだぜ。いくさになりゃあ家来と一緒に先鋒に立って戦う。だから生傷が絶えなかった。

大和大納言様に仕えたとき、紀州で2万石与えられた。これでようやく高虎様も家来たちも暮らしが落ち着いたんだ。ところが大納言様が死んじまって、高虎様は浪人になっちまった。高虎様は「さすがに六度目はねえな」と思ったらしくて頭を丸めて坊主になった。

そこへ、太閤さんが「どうだ、オレの家来になるか?」って持ちかけた。太閤さんは弟思いだったからな。「秀長の家臣なら」って気持ちだったんだろうぜ。

高虎様は、今度は紀州から伊予に国替えになった。伊予板島8万石。板島はのちの宇和島だ。

このあとが、高虎様が嫌われる原因にもなったんだがな、太閤さんがからだの具合を悪くしてから権現様にすり寄ったんだ。豊臣家の情報を逐一権現様の耳に入れたんだ。

権現様はこの情報ってヤツを一番重く見た。それで関ヶ原のあと、高虎様は板島から同じく伊予の今治に20万石与えられた。さらには伊予今治から伊賀一国・上野22万石を与えられてとうとう国持大名になった。

ただ、悪評が多かった。「太閤さんにだいじにしてもらったクセに、徳川にすり寄るなんて」ってな。

高虎様も自分が後ろ指さされてるのをよォく知っていなすった。それでも高虎様は気にしなかった。「勝つ方に付かなきゃ、家来にメシを食わせらんねえ」ってな。

大阪の陣のあと、伊勢のうちに10万石加増されて津藩主になった。「家来に腹いっぱいメシ食わすため」その一念で高虎様は国持大名になったのよ。

高虎様が死んだとき、遺体を納棺した家来は泣き出した。高虎様の手足の指が欠けているのを見たからだ。家来と一緒に弓・槍・刀を取ったからこそ、手足の指が欠けたんだ。

「オレァ家来たちがちゃんとメシ食えるようにしたぜ」

高虎様は安らかな表情で黄泉路へ旅立った。

やっぱりオレァ「とろ」よりも赤身だな。

そのまま刺身で良し、ヅケにして握っても良しだ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/五代将軍のこと-徳川光圀と堀田正俊-

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最近弥七のヤツはすっかり酒がダメでな。

で、酒がダメになったと思ったら甘党になりやがった。

何が悲しくていい歳のオヤジが二人して金鍔なんか食ってるんだよ。

水戸のジイサンに笑われちまわァ。

へえ。

蘭ってえのは綺麗な花だなあ。

水戸にこんな綺麗な花が咲くんですかい。

え?何?綱吉公が何で五代様になれたかって?

今日はえれえ真面目なお話だなあ、奈穂子サン?

家綱公にはお世継ぎがいなかった。そこでだ奈穂子サン、五代様には「こうほしゃ」が三人いた。

一人は綱吉公。

もう一人は甲府藩主・徳川綱豊様(のちの家宣将軍)。

そしてもう一人、有栖川宮幸仁親王様。

幕府の中は綱豊様を推す一派と宮様を推す一派がいた。綱豊様を推す一派が水戸のジイサンやその取り巻きの御譜代の面々、宮様を推す一派は御大老・酒井雅楽頭様(忠清)とその取り巻きの連中だった。

実はな奈穂子サン、水戸のジイサン、旗色が悪かった。御三家の当主といえども、幕府の大老職にはさすがにかなわなかった。

雅楽頭様のほうは宮様を立てて「宮将軍幕府」にしようと企んでた。宮将軍ってえのは鎌倉に幕府があった頃、得宗(北条氏)のヤツらが都から宮様を連れて来て将軍にした例のアレだ。宮様は飾り物の将軍で、執権職と連署が政事を執った。執権職は得宗(北条本家)が、連署は北条の支族が務めた。

雅楽頭様はそいつを真似ようとした。「もともと松平家と酒井家は同族だから」ってえのが雅楽頭様の言い分でな。「だからオレが執権になってもいいだろう」って。で、有栖川宮様のカミサンは越後守様(松平光長)の妹君だ。それで雅楽頭様は越後守様を連署にして幕府を乗っ取ろうとした。

水戸のジイサンが担いだ綱豊様は支持が少なくてな。ジイサンも困ってたんだ。「このままじゃ幕府は雅楽頭に乗っ取られちまう」って。そこに手を差し伸べたのが堀田備中守正俊様よ。

堀田様は新しく老中職になったばかりでな。だから雅楽頭様も「のーまーく」だったのよ。この堀田様が綱吉公を推していた。

綱吉公は家綱公の実弟でな。だから血筋から言えば綱吉公が跡を継ぐのが一番いいんだ。ただまあアレだ、綱吉公はちょっとトンチキなとこがおありでな。「トンチキはマズい」ってんで綱吉公を推す声は小さかった。が、幕府乗っ取りを指くわえて見てるワケにもいかねえ。そこでだ奈穂子サン、堀田様は水戸のジイサンに取引を持ちかけた。「綱吉様が五代様、綱豊様が六代様でいかがでございましょう」ってな。ジイサンも幕府乗っ取りを認めるワケにゃいかねえ。そこでこの取引をのんだ。

話が決まれば水戸のジイサンのことだ、動くのは早かった。少しずつだが、「綱吉支持」の人数が増えていった。

そして家綱公御臨終の場での堀田様の大芝居よ。堀田様は御危篤で「あ~う~」しか言えねえ家綱公の唇に耳くっつけてな、「皆の者!上様は館林様を五代様に御指名じゃ!」って大声で一芝居打った。そして「綱吉公を五代様にする」ってえ奉書を勝手に書いて加判して館林藩邸に駆け込んだ。

雅楽頭様は堀田様についちゃあ「のーまーく」だったからな。鮮やかな「逆転劇」だったってえこった。

この「逆転劇」、水戸のジイサンが御三家の力を目一杯使って雅楽頭様一派を切り崩し堀田様が大芝居でケリをつけた。水戸のジイサンは幕府乗っ取りの危機を守ったんだ。流石だぜ。

金鍔はもともと上方の菓子で銀鍔って言ってたんだ。

そいつが江戸に伝わったときに「江戸は決済が銀じゃ無くて金だから」ってことで金鍔って名前になった。

ま、金鍔なんか食っちまったら、今日はもう酒飲めねえな。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/本多正信

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水戸のジイサンがな、那珂川で穫れた鮭を分けてくれた。

こいつァもう、メシのおかずに酒の肴に大活躍よ。

おっと奈穂子サン、鮭の皮は捨てちゃいけねえよ。そいつはあとでカリッカリに焼いて茶漬けの具にするんだ。

玉縄桜ですかい。

相模玉縄は権現様の江戸御討ち入りのとき、本多佐渡守様(正信)に与えられた。

相模玉縄1万石。

これが佐渡守様がもらった唯一の知行だ。これ以上は一切もらわなかった。佐渡守様は権現様に一番信用された懐刀であり知恵袋よ。それなのにたった1万石しかもらわなかった。

佐渡守様は「帰り新参」だった。つまりは、一度権現様に弓引いた「謀反人」ってこった。

まだ世の中が下剋上だった頃、権現様は他の大名と同じく一向一揆と戦った。「三河国一向一揆」ってえヤツだ。

一向一揆のおっかなさは、そりゃあ並じゃねえぞ。加賀なんか、百年間「百姓の持ちたる国」だったんだからな。

信玄入道もそのおっかなさを知ってたからさっさと頭を丸めたんだ。一向一揆は坊主の殿様にはケンカ売らねえからな。

権現様は一向一揆に半年間苦しめられた。この一向一揆一揆側の「りーだー」だったのが佐渡守様よ。

権現様は一揆の連中と和議を結んだとき、「一揆に加担した者もその土地に安住してよい」「一向宗の寺はもとの状態にする」「一揆の大将たちの命は保証する」って3つの約束をしたんだ。

ところがだ奈穂子サン、権現様が守った約束は最初の一つ目だけで、一向宗の寺はことごとく破却しちまったし、また大将連中を「お尋ね者」にした。

「お尋ね者」にされた佐渡守様は三河から脱走した。それからは京で松永弾正(久秀)とつるんだり、加賀に行って一向一揆の指南をした。

三河国一向一揆から20年後、45歳の佐渡守様は権現様に詫びを入れて徳川家に帰参した。以後は権現様の知恵袋として「裏方さん」の役割を果たした。表に出ねえところに佐渡守様のおっかなさがあった。

「オレは帰り新参」佐渡守様には自戒があった。だからこそ、最高権力者たる身であるにもかかわらず相模玉縄1万石で甘んじたのよ。

佐渡守様は三河を脱走してから流浪したが、行く先々で才覚を認められた。その点は佐渡守様の次男坊の安房守様(本多政重)にも通ずるところがあるわな。

鮭も納豆も水戸のジイサンが流行らせた。

ぐるめジジイ、大したモンだ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/生類憐れみの令

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寒かろうが何だろうが、鰻はやめられねえんだ。

鰻食えなくなったときがオレの死ぬときだ。

で、今日はこの鰻の話だ。

綱吉公のときに、オレたちは鰻を取り上げられた。こいつァ奈穂子サンもよォくご存知の「生類憐れみの令」ってヤツよ。

何かあるとすぐに「切腹しろ!」って喚き散らすくせに、何が「生類を憐れむ」って言うんだ。ったく、トンチキ公方様だぜ。

この「生類憐れみの令」なんだがな、こいつァ世間一般に綱吉公にお世継ぎが生まれるようにってえ「おまじない」だって言われてるんだがな、弥七の話だとどうも違うらしいんだ。

弥七が言うにはな奈穂子サン、「生類憐れみの令」はオレたち庶民に野菜を食わせるためだって言うんだよ。余計なお世話ってもんだ。

で、何で綱吉公がオレたちに「野菜食え」って言ったかっていうと、それが綱吉公なりの「親孝行」だったのよ。

綱吉公のおっ母あの桂昌院様はな、もとは京の八百屋の娘でおたまって名前だった。このおたまが御台所様(鷹司信子)に付いて大奥に入り、家光公のお手が付いて綱吉公を生んだのよ。

綱吉公は奈穂子サンの時代でいう「まざこん」ってえヤツでな。この「まざこん」ぶりが昂じて八百屋贔屓となり、やがては「野菜だけ食ってろ」となったってえワケだ。

そりゃ、迷惑な話だ。

猪も鶏も魚も食っちゃならねえ。ひでえトンチキな御法度(法律)だ。「頭が狂いやがったのか」とさえ思ったぜ。からだにはいいかも知れねえがな。

オレたちは結局、綱吉公が死ぬまでこの馬鹿げた「親孝行」に付き合わされたのよ。腹を立てたのはオレたちだけじゃ無えぜ。水戸のジイサンもえれえ腹立ててな。

水戸のジイサンは奈穂子サンの時代でいう「ぐるめ」だった。そりゃあもう耐えられねえわな、野菜しか食えねえなんて。そこで水戸のジイサンは「もどき料理」を思いついた。歯ごたえやら舌触りやらを猪や鶏や魚に似せる豆腐料理でな。こいつは「精進料理」とはちょいと違うんだがな、水戸のジイサンのささやかな抵抗よ。

それでも「ぐるめジジイ」の水戸のジイサンは納得いかなかったんだろうな。ジイサンは助の字格の字に野良犬狩りをやらせてな。斬った野良犬を柳沢美濃守様(吉保)の屋敷の庭に放り投げた。ジイサンあとでバカ笑いだ。「スッキリしたぜ」ってな。

ただな奈穂子サン、綱吉公が「まざこん」になるには理由があった。綱吉公は奈穂子サンの時代でいう「みじゅくじ」で生まれた。家光公も綱吉公の成長は諦めてた。が、それが成長してついには五代様におなりなすった。綱吉公はおっ母あへの恩を忘れなかったんだなあ。

親孝行は大いに結構だが、野菜しか食えねえ親孝行は勘弁してくれ。

奈穂子サン、また。

奈穂子様/生類憐れみの令-鰻の目打ちと野良犬の血-

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天麩羅は江戸じゃ流行らなかったな。

何せ権現様は鯛の天麩羅食って当たっちまったからな。「縁起でも無え」ってな。

ま、その代わりと言っちゃアレだが、江戸は上方に比べて寿司が流行った。

ちょいとこないだは話が逸れちまったからな。

今日こそは鰻の話だ。

「生類憐れみの令」も最初は魚は除外してたんだ、奈穂子サン。

鰻以外にも江戸には泥鰌食うヤツがいたからな。

それでも最後はやっぱり食えなくされた。

で、ここからが綱吉公の手の込んだところでな。綱吉公は幕府の役人を使って「鰻屋の子供は祟りで盲目になるぞ」ってデマカセ言い触らした。

奈穂子サンも知っての通り、鰻はさばく前に「目打ち」ってえのをやる。

この「目打ち」をやるもんだから、鰻の祟りで鰻屋の子供はみんな盲目になるって噂をばらまいた。いい加減なこと言い触らしやがって。

これで江戸じゃ鰻が流行らなくなった。で、あとは綱吉公の思う壺だ。みんな野菜ばっかし食うようになった。

綱吉公が死んだあと、鰻はまた流行り出した。「土用の丑」なんてオレたちの時代に生まれたんだぜ。

タレは奈穂子サンの時代のタレに比べるとちょいと辛口でな。甘口のタレはメシの上に蒲焼きを乗っける店がやり始めた。

ま、綱吉公にゃ悪いんだが、オレたち江戸っ子はやっぱり鰻はやめらんねえんだ。

もうちょっと喋っていいってんで、何で綱吉公が犬を特に庇ったかを話すか。

やくざ者が親分子分・兄弟分の盃を交わすとき、犬の血を飲んだんだ。

綱吉公が将軍になりたての頃、江戸にはやくざ者がはびこっていて町人たちに迷惑かけてたんだ。

綱吉公はそれを知っていなすったから、やくざ者の盃の儀式に犬の血を使えねえようにって犬を特に庇った。単にお世継ぎの「おまじない」だけじゃねえんだよ。

ある程度はな、効果があったんだ。やくざ者は明らかに減った。ところが今度は野良犬が偉くなっちまった。

野良犬の野郎は人様に噛みつくわ所構わずしょんべん垂れるわでそりゃあ大変だった。

やくざ者の次は野良犬。

でもまあ、野良犬は盗みも殺しもやらねえからな。しょんべんくらいは大目に見てやらねえとな。

蒲焼きに辛口の冷やをキュッとやるのが楽しみなんだ。

奈穂子サン、また。