もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/本多正信

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水戸のジイサンがな、那珂川で穫れた鮭を分けてくれた。

こいつァもう、メシのおかずに酒の肴に大活躍よ。

おっと奈穂子サン、鮭の皮は捨てちゃいけねえよ。そいつはあとでカリッカリに焼いて茶漬けの具にするんだ。

玉縄桜ですかい。

相模玉縄は権現様の江戸御討ち入りのとき、本多佐渡守様(正信)に与えられた。

相模玉縄1万石。

これが佐渡守様がもらった唯一の知行だ。これ以上は一切もらわなかった。佐渡守様は権現様に一番信用された懐刀であり知恵袋よ。それなのにたった1万石しかもらわなかった。

佐渡守様は「帰り新参」だった。つまりは、一度権現様に弓引いた「謀反人」ってこった。

まだ世の中が下剋上だった頃、権現様は他の大名と同じく一向一揆と戦った。「三河国一向一揆」ってえヤツだ。

一向一揆のおっかなさは、そりゃあ並じゃねえぞ。加賀なんか、百年間「百姓の持ちたる国」だったんだからな。

信玄入道もそのおっかなさを知ってたからさっさと頭を丸めたんだ。一向一揆は坊主の殿様にはケンカ売らねえからな。

権現様は一向一揆に半年間苦しめられた。この一向一揆一揆側の「りーだー」だったのが佐渡守様よ。

権現様は一揆の連中と和議を結んだとき、「一揆に加担した者もその土地に安住してよい」「一向宗の寺はもとの状態にする」「一揆の大将たちの命は保証する」って3つの約束をしたんだ。

ところがだ奈穂子サン、権現様が守った約束は最初の一つ目だけで、一向宗の寺はことごとく破却しちまったし、また大将連中を「お尋ね者」にした。

「お尋ね者」にされた佐渡守様は三河から脱走した。それからは京で松永弾正(久秀)とつるんだり、加賀に行って一向一揆の指南をした。

三河国一向一揆から20年後、45歳の佐渡守様は権現様に詫びを入れて徳川家に帰参した。以後は権現様の知恵袋として「裏方さん」の役割を果たした。表に出ねえところに佐渡守様のおっかなさがあった。

「オレは帰り新参」佐渡守様には自戒があった。だからこそ、最高権力者たる身であるにもかかわらず相模玉縄1万石で甘んじたのよ。

佐渡守様は三河を脱走してから流浪したが、行く先々で才覚を認められた。その点は佐渡守様の次男坊の安房守様(本多政重)にも通ずるところがあるわな。

鮭も納豆も水戸のジイサンが流行らせた。

ぐるめジジイ、大したモンだ。

奈穂子サン、また。