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高知城

【2013年3月15日-2】

土佐高知藩山内家の分家に麻布山内家というのがあった。
元禄4年、麻布山内家を相続したのが前土佐中村藩主・山内豊明の三男・豊清だった。
麻布山内家は旗本で、家禄3,000石。
はじめは上総国内(いまの千葉県)に領地を持っていたが、のちに常陸国内(いまの茨城県)に国替えとなった。
この麻布山内家の菩提寺が江戸麻布の曹渓寺だった。
菩提寺が曹渓寺だったことが、後年、一人の男を山内家に召し抱えるきっかけとなった。



享保8年の3月頃、一人の男が「寺男としてここに置いてほしい」と曹渓寺に転がり込んで来た。
その男、名をば



寺坂信行



という。
世間一般に寺坂吉右衛門の名前で知られるこの男は、元は播磨赤穂藩足軽だった。



吉右衛門大石内蔵助の吉良邸討ち入りに参加し、その後、安芸広島の浅野本家へ討ち入り成功を伝える使者として一人江戸を離れた。
吉良邸討ち入り後に自首した四十六に大目付・仙石伯耆守久尚が「一人足りないのではないか?」と聞くと、吉右衛門の直接の主人である吉田忠左衛門



「あれは身分の低い足軽なので、さっさと行方をくらませたのでしょう」



と言ってごまかした。
この少しあとになって仙石久尚吉右衛門が生きていて広島へ向かったことを知ったが、久尚は追手を差し向けるようなことはしていない。
仙石久尚ものちの首席老中・土屋政直同様、赤穂贔屓だったためだ。
こうして、仙石久尚と赤穂浪人たちの暗黙の了解のもと、吉右衛門はいのちを長らえた。



その吉右衛門が、ひょこっと江戸に出て来たのだ。
それを、麻布山内家の当主である豊清が知った。
豊清は曹渓寺に出向いて



「寺坂どの、どうだろう。我が麻布山内家に仕えて下さらぬか?」



吉右衛門に言った。
無論、足軽では無い。高知藩分家・麻布山内家家臣として士籍を与えると言っているのだ。
この幸運に吉右衛門は二つ返事で麻布山内家に仕えることにした。
当時、「忠臣蔵人気」は現在とは比べものにならないくらい大きかった。そのため、山内豊清としても吉右衛門を召し抱えることで江戸での評判を良くする効果があると踏んだのだ。



吉右衛門の幸運は子孫にまで及んだ。
麻布山内家は豊清の次の豊産の代に本家・高知藩から蔵米1万俵を分知されて旗本から大名に出世した。これが高知新田藩である。
寺坂家の子孫は高知新田藩の家臣として続いたのだ。