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二条城

【2012年10月15日】

慶長20年6月11日。
山城西岡藩主・古田織部正重然、切腹
享年72。
世間一般に古田織部と呼ばれるこの男は、大坂城落城後に京都所司代に逮捕され、切腹させられた。

罪状は



一、二条城を爆破し、京都市中を焼き払おうとしたこと。
一、豊臣家へ密かに兵糧を流していたこと。



の二点である。

明らかな言い掛かりで、無理やりにでも織部をこの世から消そうという意図がありありと見える。
京都所司代板倉勝重織部の身柄を拘束したあと、形ばかりの罪状認否を行なったが、織部は一言も抗弁せずに黙って腹を切った。
「何を言っても無駄」
かつて、茶の湯の師である千 利休が秀吉からやはり言い掛かり同然の罪状で切腹させられているのを織部はよく知っているからだ。

織部切腹の二つの罪状のうち、二条城爆破はまず不可能。
もう一つの大坂への兵糧横流しはほとんどの豊臣恩顧の大名が疑いをかけられた。
ついでに言えば、兵糧横流しを直接の原因で取り潰された大名はゼロだ。
福島正則広島城無断改修が原因だったし、加藤忠広に至っては家光将軍の代になってから全く違う理由で取り潰された。

いえやっサンが織部を無理やりにこの世から消したのは、秀吉政権の頃の千 利休を見ていたからである。
茶人が政治に容喙し、影響力を行使する。
いえやっサンはこれを不健全なことだと思っていた。

「この不健全を徳川政権で繰り返してはならない」
そう思っていたいえやっサンに不安材料があった。
秀忠将軍が織部茶の湯の弟子だったのだ。
また、毛利家の家宰として輝元・秀就の二代にわたって腕を振るった毛利秀元織部の弟子だった。
いえやっサンにはかつての千 利休の姿が頭の中によぎった。

「このままではいけない」
いえやっサンは機会があれば災いの芽を摘んでしまおうと考えた。
そして、罪状の捏造という徳川政権の「お家芸」で織部をこの世から消した。



古田織部は「利休十哲」と呼ばれる千 利休の弟子の一人だった。
同じ「利休十哲」の中にはあの織田有楽斎長益もいるのだが、有楽斎は切腹なんかせずに天寿を全うしている。

二人の差は、



権力を求めたかどうか



にあった。



秀忠将軍や毛利秀元といった権力者層を弟子に取った織部と、「信長の弟」というプライドを捨てて権力と距離を置いた有楽斎。
二人のこの差が切腹する、しないの分かれ道となった。