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いずみ江戸日記/最上騒動・義俊改易

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あ、いずみサン、そいつは真かれいじゃねえですか。

その真かれいも最上(山形)の真かれいですかい?

そいつァいずみサン、煮付けじゃなくて塩焼きのほうがうめえんだ。

じゃ、今日はそいつで一杯やるとするか。

今日は最上の話の続きでさァ。

今度ァ出羽侍従様(最上家親)とトンチキ義俊の話だ。

じゃ、ちょいとお耳を拝借しやすぜいずみサン。

出羽侍従様が山形57万石の相続を認められて山形に入封してみると、明らかに家中の様子がおかしかった。出羽侍従様は義康様の最期を江戸で知った。だから山形にいてその目で義康様の最期を見た連中とズレがあった。いずみサン、最上の連中は左少将様(最上義光)の生前に斉藤光則様が調べあげたことを知ってたからな。義康様始末の一件は佐渡守様(本多正信)の調略で、その調略に乗った里見民部の野郎が左少将様を唆して義康様の命を奪ったってえことをな。

山形にいる連中は出羽侍従様を佐渡守様と「いこーる」と思った。無理も無え。いずみサン、考えても見ろよ。出羽侍従様は長えこと江戸で証人(人質)暮らしだったんだ。しかもその証人暮らしの中で権現様や秀忠公に気に入られてたんだ。そりゃ、山形の連中は出羽侍従様を「本多佐渡守と同心」って思わあな。

山形に入封して、その年の6月にいきなり謀反が起きた。いずみサン、その謀反の親玉が清水義親様。出羽侍従様のすぐ下の弟だ。前回話した通り、義親様は豊臣に証人に出された。関ヶ原のあと、義親様は山形に戻って清水城主に収まってた。義親様は兄貴(義康)の最期をナマで見てるうえに豊臣贔屓だ。いずみサン、太閤はひでえことをする一面もあったが、証人として差し出された連中には血の繋がった家族のように温かく接したんだ。だから義親様も真田の源次郎(幸村)も越前中納言様(結城秀康)もみんな太閤好きの豊臣贔屓だったのよ。

義親様としちゃあ兄貴が死んだのは出羽侍従様のせいだって思っちまったんだろうぜ。出羽侍従様は清水城に討伐軍差し向けて義親様・義継様父子の首をもいだ。襲封4ヶ月でこれだぜいずみサン。出羽侍従様も先が思いやられるってモンだ。

山形ン中は義康様の一件でしこりだらけ。加えて、義親様討伐で義親様の遺族に恨みを買っちまった。さらにいずみサン、元和2年に後ろ楯の権現様と佐渡守様が相次いでポックリだ。とうとう出羽侍従様は独りぼっちになっちまった。

で、元和3年の3月6日だ、いずみサン。

いずみサンの時代には「急死」ってだけ伝わってるんだろうけど、出羽侍従様は死んだ。36歳だった。

36歳の健康体がいきなり死ぬんだ。誰だっておかしいって思うわな。死因は2つ説がある。1つは山形城で猿楽観てるときにいきなり倒れてそのままポックリと、もう1つは清水義親様の妾だったおねえちゃんにブスリとやられたってえのと、この2つだ。無論、最上家は幕府にゃ病死で届け出た。幕府もおかしいとは思ったが、何せ出羽侍従様が権現様や秀忠公のお気に入りだ。取り潰すわけにもいかねえから、5月9日に源五郎坊やに山形57万石の相続を認めた。この源五郎坊やがのちのトンチキ義俊だ。

源五郎改め義俊は12歳で山形57万石を相続したが、12歳の坊やに万石以上の家臣が16人もいるような藩は仕切れやしねえ。そこへ、義俊の叔父にあたる松根備前守(松根光広)ってえのがトンチキ義俊に酒と女を教えて藩政から遠ざけた。酒と女を覚えた義俊はすっかりトンチキになっちまった。松根のヤツはこれで藩の実権を握った。藩主がトンチキなのをいいことに松根のヤツは好き勝手やった。

この好き勝手に立ち向かったのが出羽侍従様の実弟・山野辺義忠様と最上家家老・鮭延越前守様(鮭延秀綱)だ。鮭延様は「松根に最上家を乗っ取られるくらいなら、義忠様を藩主にしたほうがいい」ってな。これで松根派と山野辺派で御家騒動よ。こないだ話した楯岡甲斐守様(楯岡光直)は山野辺派だ。

元和6年のこった、いずみサン。トンチキ義俊じゃあ収めきれねえくらい騒動が大きくなっちまってな。で、御大老土井利勝)がこの年から藩政目付を山形に常駐させたのよ。山形の中のこたァ藩政目付が逐一御報告よ。

藩政目付が常駐になると、松根派は日に日に状況が不利になったんだ。で、不利になった松根のヤツが「一発逆転」を狙って元和8年に出羽侍従様毒殺説を雅楽頭様(酒井忠世)に訴え出た。証拠も何も無え、でっち上げの毒飼いだ。

あとはいずみサンの知っての通りだ。松根のヤツは敗訴して柳河藩お預け。山形57万石は鮭延様と楯岡のオッサンの「最上武士の心意気」でお取り潰しだ。

最上取り潰しのあと、山野辺様は水戸様の家老、鮭延様は御大老の古河藩に、楯岡のオッサンは熊本藩に仕えた。

トンチキ義俊は寛永8年の11月22日に26歳で死んだ。

出羽の名門・最上家はこうして出羽国から消えた。

真かれいの塩焼き、うまかったぜ。

いずみサン、また。