もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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白河城

【2012年4月20日☆】

天明7年6月19日。
陸奥白河藩主・松平越中守定信は首席老中に任命された。
これから6年間、定信は政治改革を実行する。
定信の行った改革を「寛政の改革」と呼ぶ。

寛政の改革」のメインテーマは財政の建て直しであった。
前任者の田沼意次も財政建て直しを図ったが、運悪く天変地異が続いたため結果が出せず、加えて家治将軍病死に関連して疑惑をかけられたため老中職を罷免されてしまった。

定信は、田沼の失敗を単に貨幣経済浸透の失敗と見ていた。なので、定信は幕府初期に見られるような重農政策を取った。
しかし、定信は壁にぶち当たる。

その壁とは



大奥



である。

幕府財政を建て直すには、この常識外れの無駄遣い集団を何とかしなければならない。

定信は大奥の予算を削ろうとした。
そこへ、大奥の老女・大崎が



「御同役、それは無理な話でございましょう」



と抵抗した。
「御同役」という表現に腹が立った定信は



「御同役じゃと?首席老中と大奥の年寄を同役とは言葉が過ぎようぞ」



と言い返した。
すると大崎は



「首席老中も大奥年寄も同じく上様にお仕えする身。何の違いがありましょうや」



とやり返した。

定信はこの大崎をよく知っている。
ある時期から「反田沼」の態度を明確にし、意次失脚と定信の出世に惜しみなく協力したのが大崎だった。
何故か?
それは意次が大奥の予算に手を突っ込んだからである。意次は幕府の予算を組むとき、民政の予算はそのままに大奥の予算を削減した。これが大奥を「反田沼」にし、大崎がその窓口になったのだ。

大崎の強気の態度に定信は



「主殿頭(意次)も、この手でやられたのか…」



と、かつての政敵に同情した。
定信も意次も出した答えは一緒だった。「大奥が一番のガンである」と。

大奥は、たとえそれが吉宗将軍の実の孫であろうと、自分たちの予算に手を突っ込む者は絶対に認めないのだ。
大崎は家斉将軍や家斉将軍の実家・一橋徳川家に手を回して定信失脚を図った。

定信の直接の罷免理由は尊号事件と呼ばれる朝廷とのトラブルだが、やはり、大奥が原因だろう。
閉ざされた社会で、浪費しか人生の楽しみが無い女性たちから浪費を取り上げたら、あとは何も残らないではないか。



大奥の抵抗は「私たちだって生きてるんだ!」という生身の女性の心の叫びだったのかも知れない。