もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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松山城

【2012年7月3日】

1640年(日本の寛永17年)、ポルトガル、スペインから独立。
1643年(日本の寛永20年)、ポルトガルで新王即位。
ポルトガル王、日本との通商再開を求めて使節を日本に派遣することを決める。
1645年(日本の正保2年)、ポルトガル使節船がリスボンを出航。
バタビアインドネシア)→マカオ→ゴア(インド)→琉球を航行、そして…



正保4年6月24日。
ついにポルトガル使節船2隻は長崎・伊王島に姿を現した。
そして、長崎奉行から幕府へ「ポルトガル船来たる」の一報が届く。
幕府は伊予松山藩主・松平定行を長崎探題職に任命し、長崎下向を命じた。



正保4年7月13日。
松平定行、長崎到着。
長崎は福岡・佐賀の両藩が交互に長崎警備をしていて、正保4年は福岡藩が当番だった。

福岡藩主・黒田忠之はいいところを見せようと定行に対し、



「あなたは将軍の代理で長崎に来たのだから、指図だけしてくれれば結構。異国船のことは我等にお任せあれ」



と言った。
これに対し、この年は非番であるはずの佐賀藩からも藩主・鍋島勝茂の代理で鍋島直弘が長崎にやって来て、



隠岐守どの、異国船はこの鍋島一手にて引き受け申す」



と、これまた黒田忠之同様かっこいいところを見せようとした。
黒田忠之は「異国船を焼き払う」と言い、鍋島直弘は「異国船を乗っ取る」と言うのだ。

日本国内では定行が長崎に到着する3日前の7月10日、幕府の大黒柱たる大老職・土井利勝が死去していることから、今回のポルトガル船対応は緊張感を持った対応を迫られた。

しかし、ポルトガル船の目的がわかると、定行も黒田も鍋島も拍子抜けしてしまった。
ポルトガル使節船の目的はポルトガル独立の報告と通商再開の2点で、キリスト教宣教や日本侵略が目的では無かった。

「驚かせおって」
松平定行はポルトガル使節団と長崎で歓談した。
その際、定行は彼等が食べていたお菓子が気になったので「それは何だ?」と問うと



“TART LETTE”



と短く答えた。
「タルトレイト」
タルトのことである。

定行はこの「タルトレイト」が気に入ったのでポルトガル使節団からレシピを教わって松山に帰国した。
これが松山名物「一六タルト」の始まりで、定行はこのときタルトに使うジャムの代わりに餡を使うようにしている。



現在は餡を使う他、餡にいよかんを使うタルトもある。