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松本城

【2012年8月28日】

流離貴族。
流浪する貴族のことで、室町時代後半にはこれが多く発生した。



小笠原長時
信濃松本藩主・小笠原秀政の祖父だ。
小笠原家は信濃国守護で、鎌倉時代から続く由緒正しき家柄だ。作法の「小笠原流」はこの家から発祥している。
長時は武田晴信によって信濃国を追放され、以後、流浪の日々を送る。

長時の息子を貞慶という。
貞慶は織田信長に仕え、関東甲信越で織田方として調略活動を展開する。
その貞慶に転機が訪れる。

天正10年6月2日払暁。
織田信長、本能寺に散る。
小笠原貞慶はいえやっサンに臣従することに決め、息子・貞政をいえやっサンへ人質に出した。
いえやっサンは貞政を石川数正に預けた。

平和な人質生活を送っていたが、天正13年11月、貞政を預かっていた石川数正が貞政を道連れにして豊臣秀吉に寝返った。

秀吉は数正を歓迎した。
数正が寝返ったことで徳川家の軍制が秀吉に筒抜けになるのだ。秀吉は上機嫌で数正に和泉国のうち10万石を与えた。
また、道連れで大坂に来た貞政には「秀」の字を与えて秀政と名乗らせた。小笠原秀政の誕生である。



秀吉といえやっサンとの間に講和が成立すると、秀吉は



石川数正とともに投降して来た小笠原秀政のことなのだが、もともと秀政は数正が勝手に連れて来たものゆえ徳川家に帰したいと思うが、どうだろう?」



と持ちかけた。

いえやっサンは最初、秀政も数正と同意のうえで豊臣家に奔ったものと疑っていたが、秀吉の話を聴いて疑いを解いた。
そして、いえやっサンと秀政の間に和解が成立した。天正17年のことである。

そして、この年8月、いえやっサンは長男・信康の娘・登久姫を秀政に嫁がせた。
秀政と登久姫の夫婦関係は良好で、二人の間は6男2女の子沢山であった。



慶長5年の関ヶ原の戦いでは宇都宮城を防衛した。
その功績で、慶長6年に信濃飯田5万石を与えられた。信濃国守護・小笠原家が武田晴信に追放されてから長い年月を経て信濃国に返り咲いたのだ。さらに慶長18年には同じく信濃松本8万石へ転封となった。
祖父・長時が流離貴族となってから三代目にして小笠原家は信濃の大名に復帰した。しかし、これは稀なケースなのだ。



慶長20年5月7日。
小笠原秀政、大坂で戦死。
享年47。

小笠原家は次男・忠真が相続したが、小笠原家は信濃から播磨明石を経て豊前小倉へと転封となった。