もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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鶴ヶ城公園(会津若松城)

【2010年3月5日】

上杉播磨守綱勝、変死。



寛文4年閏5月7日、出羽米沢藩主・上杉綱勝が変死した。
変死と断言出来るのは、米沢藩家老・千坂高房が綱勝の「病状日記」を残しているからだ。

この病状日記は



『削封日記』



というタイトルが付けられている。
「削封」というのは、米沢藩が30万石から15万石に半知にされたことを指す。
本来ならお取り潰しになるところを半知で済んだのだが、千坂はそうは思っていない。だから病状日記に『削封日記』と当てつけがましくタイトルを付けたのだ。

上杉綱勝の最初の正室保科正之の娘・媛姫だった。
このため、上杉・保科両家の関係は良好で、媛姫の死後も正之と綱勝の関係は良好だった。
媛姫は子供を生まずに死んだため、綱勝は公家の四辻家から後室を迎えた。

綱勝に富子という妹がいた。
この富子が高家吉良上野介義央に嫁いでいて、綱勝は吉良義央とも関係があった。
寛文4年閏5月1日、吉良邸に招かれた綱勝は米沢藩邸に戻ると体調不良を訴え、そのまま寝込んだ。

千坂の日記には



小豆の煮汁のような液体を嘔吐した



だとか



布団で3回大便をもらした



だとか出て来るので毒殺が疑われるのだが、これは疑惑の域を出ない。

千坂は半知にされた恨みから吉良義央による毒殺を疑うが、それは順序が違う。
吉良義央米沢藩を私物化するために綱勝を毒殺するのであれば、先に綱憲(義央と富子の間に出来た子)を米沢藩の養子に確定させてから毒殺しなければ「藩主変死」で取り潰されてしまう。

おそらくは食中毒。
毒殺はあくまで疑惑。ただ、変死であることに変わりは無い。
しかし、綱勝は子供を遺していない。このままではお取り潰しになってしまう。

当然、幕府は最初「米沢30万石は収公」とお取り潰しの方向で検討した。
それを止めたのが保科正之だった。
正之は媛姫の死後も綱勝と良好な関係だったので上杉家を庇った。
正之の影響力は大きかった。本来なら無嗣収公となるところを



吉良義央の子・綱憲に相続を認め、改めて米沢藩領のうち15万石を与える」



という処置で決着がついた。
正之の「周りにいる人をだいじにする気持ち」がここに現れている。



会津藩米沢藩は幕末も佐幕派だった。
これも正之の縁によるものなのかな、と思う。