もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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長浜城

【2010年3月8日】

天正13年11月29日、現在の岐阜県北西部を震源としたマグニチュード7.9~8.1の大地震が発生した。
東海北陸・近畿の各地域に被害が出て、山内一豊の居城・長浜城でも被害が出た。
城の中が崩れ、その下敷きとなった6歳の少女が圧死した。

この少女、名をばよねという。
よねは山内一豊とその妻・千代の間に生まれた唯一の子供である。
「よね!」
悲鳴だった。
一人の母親が、圧死した我が子を見て悲鳴を上げた。
一豊もまた、悲しみに暮れた。
これ以降、二人は子供を作っていない。夜、よねのことを思い出してしまうのだ。

一豊は千代と結婚してから、他のオンナを抱いていない。これは側室を持たなかったことを意味する。
持とうと思えばいつでも持てただろう。だが、一豊は生涯千代ONLYだった。
一豊だってオトコだ。
千代以外のオンナを見てムラムラとくることはあっただろうし、またそれを批判したり非難したりする時代では無かった。子供を作るのがある種の義務だったのだから。
しかし一豊は側室を持たなかった。これは千代への愛というより、よねへの愛である。

どうしても、よねを思い出してしまう。
だから夜、千代を抱く気になれない。
自分を国持大名にまでしてくれた「世話女房」に対してでさえこうなのだ。他のオンナなどなおさら抱けない。
結局、一豊は死に際して甥の忠義を養子にして跡継ぎとした。

よねの死は、一豊に違う影響を与えた。
秀吉の天下統一後、一豊は豊臣秀次の家老となり遠江掛川5万石を与えられた。
少ししてから主君・秀次が切腹に追いやられ、その遺児や側室たちが全員公開処刑された。

幼児や女性が次々と斬られて死んでいくのだ。
悲鳴。
血しぶき。
転がる首。
よねを6歳で亡くした一豊は



「こんなの、絶対に間違っている」



と強く思った。
よねを失うことで幼児のいのちを思う気持ちが一豊の中で芽生えたのだ。

この公開処刑で一豊の秀吉に対する見方は変わった。
秀吉が死ぬと、一豊と千代は迷うこと無く豊臣家の内部情報をいえやっサンに流し続けた。
よねを思う気持ちが、幼児を処刑した秀吉を許せない気持ちにさせたのだ。



よねのいのちは長浜城で消えたが、よねを思う気持ちは生涯消えなかった。