もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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岡山城

【2009年7月17日】

二人の変わり者。

一人は備前岡山藩主・池田治政。32万石の国持大名だ。
もう一人は浮田幸吉。傘屋の傘張り職人だ。

浮田幸吉は7歳のときに親を亡くし、岡山の傘屋に奉公に出ることになった。
真面目な上に手先が器用だった幸吉は仕事の腕もメキメキと上達した。
一度仕事を覚えてしまえば、器用な幸吉のことなので手の空く時間が増えた。
この空いた時間に幸吉は鳥の研究を始める。職場の連中は最初、「おまえ、そんなに鳥が好きなのか」とその程度にしか思わなかった。

1785年7月、28歳の幸吉は岡山城下を驚天動地の騒ぎに陥れる。
幸吉は竹を骨組みにして紙と布を張ったものに柿渋を塗ったグライダーを作った。
そのグライダーを岡山城下の橋の上に持って来て、



「トビマス!トビマス!」



と橋からグライダーごと飛んだのだ。

「ヒイッ!」
「キャアーッ!」
橋の下で涼んでいた多くの人たちが悲鳴をあげて逃げ回った。
人が空を飛んだのだ。
移動手段が馬と船しかない時代に人が空を飛ぶのだ。そりゃ驚くだろう。
飛行距離はほんのわずかだが、これが日本で初めての有人飛行となった。

橋の下の騒ぎを聞きつけた岡山藩の役人が幸吉を逮捕し投獄した。
ものすごい騒動になったので、岡山藩の領民は「幸吉のヤツは、ありゃ打ち首じゃな」と噂し合った。

この騒動を聞いて幸吉に興味を持ったのが岡山藩主・池田治政だった。
治政は



「おまえ、空飛んで、どうだった?」



と、空を飛んだ動機では無くて、感想を聴いた。

幸吉は



「鳥の気持ちがわかりました」



と正直に答えた。

治政の家臣の間から笑いが漏れた。治政も笑い出した。
治政は笑いを堪えきれず、笑いながら



「本来、これだけ大きな騒ぎを起こしたら死罪なのだが、おまえを死なせるのは惜しい。だからおまえは備前から追放」



岡山藩からの追放処分を、笑いながら言い渡した。
「死なせるのは惜しい」と最後にまた笑いながら繰り返した。家臣たちは治政が笑っているので我慢せずに笑いながら「よそでも達者でのう」と声をかけた。

治政は幸吉を侮辱するために笑ったのではない。治政は幸吉を見て



「オレとおんなじ変わり者」



と思い、それがおかしくて笑ったのだ。
それは治政の家臣たちも一緒で「こいつは、まるで我が殿のようだ」と思って笑ったのだ。

幸吉は岡山を追放されたあと、駿府に移り住み



備前屋幸吉



という名前で第二の人生を歩んだ。
備前屋」という屋号が示すように、彼は木綿商人になった。
やがて商売が軌道に乗ると、幸吉は店を子供に譲って歯科技師になった。
変わり者の一生だった。



さて、治政のことだ。
治政が藩主の頃、幕府は将軍補佐職兼首席老中・松平定信が「寛政の改革」を実施していた。口やかましく「倹約、倹約」と唱えた改革のことだ。
変わり者の治政は「寛政の改革」に真っ向から逆らった。徳川宗春さながらにキンキラキンのド派手ファッションで江戸に参勤し、江戸っ子たちを驚かせた。そして贅沢三昧をした。
江戸っ子はこれを面白がって落書した。



越中が越されぬ山が二つある。京で中山、備前岡山」



越中というのは定信のことで、定信は越中守だった。
中山というのは中山愛親という公家のことで、尊号事件でやりあったことを指す。
備前岡山は治政のことだ。
尊号事件も「寛政の改革」も定信の命取りとなった。尊号事件では朝廷から幕府に苦情が出て、「寛政の改革」は大奥から苦情が出た。
定信に対する苦情に家斉将軍は庇いきれなくなり、ついに「職を解く。ゆるりと休め」と言って将軍補佐職も老中職もいっぺんに罷免した。

が、定信は後任の首席老中に腹心の松平信明を指名して江戸城を去った。
松平信明は治政に報復した。治政を隠居に追い込んだのだ。
治政はこれといった抵抗はせずにさっさと隠居した。隠居した治政はすぐさま頭を丸坊主にして政治の世界から一切身を引いた。



「所詮オレは変わり者。そういえば、あの幸吉のヤツは達者にしてるかな」
治政はのんびりとした晩年を過ごした。