もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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松山城

【2009年7月21日】

吉宗将軍の頃、松山藩はウンカの発生による大飢饉に見舞われた。
大量の餓死者を出した。義民・作兵衛が死んだのもこの飢饉のときだ。

この当時、松山藩は家老・奥平藤左衛門一派と同じく家老・奥平久兵衛一派が権力争いをしていて、この飢饉のときの藩の責任者は藤左衛門だった。

藩主・松平定英が江戸で急死し定喬が跡を継ぐと、久兵衛は待ってましたと言わんばかりに



「殿、御先代様のときの飢饉の餓死者の責任をはっきりさせないと」



と定喬に言った。
大量の餓死者が出たうえに藩士は一人も餓死していない。幕府からの松山藩に対する視線は厳しく冷たいもので、それは定喬も重々承知していた。
奥平藤左衛門は飢饉対策を怠ったばかりか、飢饉対策用に幕府から貸し出されたカネを大坂で遊興費に使ってしまった。これが藤左衛門の処分理由だった。

藤左衛門は松山藩領内の久万山に追放され、さらには久兵衛が「それでは手ぬるい」と藤左衛門を大坂に追放した。これで両奥平家の権力争いは久兵衛が勝ったかに見えた。

が、今度は久万山地域の農民2,800人が一揆を起こした。
一揆の理由は和紙の専売に関わることと米価の高騰が主な原因で、久万山地域の農民は



逃散



というやり方の一揆を起こした。
逃散は「ちょうさん」と読む。読んで字の如く、その地域から逃げて散ってしまうのだ。
逃散は武装蜂起されるよりキツかった。何故なら、逃散されて戻って来ないとその地域の年貢はゼロになってしまうからだ。
久万山地域の農民は隣藩の大洲藩に逃げ込んだ。松山藩は逃げた農民に対し



一揆の罪は不問。救済米を出すので戻って来い」



と呼びかけたので農民も久万山地域に戻った。
藤左衛門派の連中は「久兵衛どのに一揆の責任がある」と主張し、藩主・松平定喬に「藤左衛門どのを松山に呼び戻して下さいますように」と願い出た。

大坂から呼び戻された藤左衛門は久兵衛に対し



「賄賂による依怙贔屓で藩政を歪め、さらにその上一揆まで起こされた罪は重い」



と断罪し、久兵衛を生名島に追放した。
そして追放から8年後、藤左衛門は藩目付に命じて生名島の久兵衛を殺害した。
長年続いた両奥平家による権力闘争はこれでようやく決着を見た。



松山藩に限らず、権力争いはどこの藩にもあった。