もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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奈穂子様/歳上女房-上杉治憲とお豊-

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こうも暑い日が続くと、やっぱそうめんだわな。
で、今日は弥七と二人してそうめんズルズルっと食ってるのよ。



お江の方、ですかい?奈穂子サン?
そいつァいけねえや。
あんまし迂闊にあの人のこと喋ったら奉行所にしょっ引かれちまうぜ。
ま、同じ「歳上女房」の話なら違うお方の話にしましょうや。奈穂子サン?
上杉弾正大弼治憲様。
奈穂子サンの時代じゃ「上杉鷹山」の名前で知られるあのお殿様のことでさあ。
治憲様はもともと日向高鍋の秋月家の次男坊でな。だから最初は秋月松三郎って名乗ってた。
まあアレだ。3万石の部屋住みだ。貧乏ながらものんきに一生を過ごせたかも知れなかったんだがな。
ところがだ、奈穂子サン。この松三郎坊ちゃんの母方のバアサンが上杉家の御出身でな。そンで当時の殿様の重定様に跡継ぎがいねえってんで「松三郎どのを婿養子に」って言って来た。秋月家では特に断る理由なんざ無えから二つ返事で話は決まった。
で、その、松三郎坊ちゃんのカミサンなんだがな。
ひでえ話でさァ。
重定様の娘の幸姫様の婿養子ってことで上杉家に入ったんだがな。この幸姫様が生まれつきの寝たきりだったのよ。これじゃ「夫婦ごっこ」さえ出来やしねえ。
治憲様の側近は早速側室探しをおっ始めた。当然だわな。寝たきりのカミサンとの間に子供はできねえからな。
そこに、重定様がてめえの親戚のお豊さんってえのを治憲様の側近に推挙した。「推挙した」って言やあ聞こえはいいが、早ええ話が行かず後家のお豊さんを治憲様に押し付けたのよ。
こン時、治憲様は20歳、お豊さんは30歳だ。奈穂子サンの時代の言葉を借りりゃあ「非常識」そのものよ。
治憲様も最初は戸惑った。そりゃそうだ。歳が10も上なんだから。「借金の額も女房の歳も上過ぎ(上杉)」たァよく言ったモンよ。
しかしだ奈穂子サン。この行かず後家のお姉さんは、実によく治憲様を支えなすった。
治憲様はだあれも味方がいねえ米沢にたった一人で「ぱらしゅーと」で降りてったようなもんなんだ。そんな治憲様を、お豊さんは一生懸命支えたんだ。
お豊さんは治憲様の改革の良き理解者でな。確かに米沢藩には忠臣が多かったが、やっぱりお豊さん抜きに改革は出来なかったはずだぜ。
16万両。
奈穂子サンの時代のカネに直すと80億円。
こんだけの借金を、治憲様は一代で返済して米沢藩財政を見事建て直した。「お見事」の一言よ。
ただまあ、世の中は誰に対しても「収支トントン」を求めるんだろうなァ…
治憲様とお豊さんの間には顕孝様と寛之助様の二人の子供ができたんだがな。寛之助坊ちゃんは夭折、顕孝様は両親に先立って19歳で病死した。藩財政の建て直しの苦しみの中で授かった二人を亡くした治憲様とお豊さんはさぞガッカリしたろうぜ。
治憲様とお豊さんの「二人三脚」は51年続いた。お豊さんが81歳で永眠すると、治憲様も4ヶ月後にこの世を去った。享年72。

なせばなる
なさねばならぬ
なにごとも
ならぬはひとの
なさぬなりけり

こいつはな奈穂子サン、治憲様とお豊さんの「二人三脚」から出た「勝利宣言」ってえヤツだ。
オレァそう思う。



そうめんの薬味にゃ炒り卵と茄子の炒め物。
こいつがまた合うんだよ。
奈穂子サン、また。