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【みんな生きている】シェーンバッハ・サボー(21)/西岡 力編

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西岡 力(総合司会、救う会会長)

みなさん、こんにちは。
今日は9月17日です。14年前のこの日、今日曽我ひとみさんがここに来ておられますが、小泉訪朝があり、そしてその後5人の被害者がタラップを降りてこられました。14年経ちました。
「最終決戦は続いている!制裁と国際連携で全員救出実現を!国民大集会」を始めたいと思います。宜しくお願いいたします。
司会は救う会会長の西岡がやらせていただきます。


■最初の認定拉致から既に39年

先ほど私は14年前の今日という日にちで申し上げました。
実は39年前のあさって、日本政府が認定している拉致被害者、久米 裕さんが一番最初に拉致された日です。39年、我々は救うことができないでいます。
最近、蓮池 薫さんが色々な所でこう言っています。「被害者は物質的にはそれなりに恵まれている。しかし精神的な安定が心配だ」と。
14年前、5人の被害者が帰ってきました。それ以外の人たちは、「死んだ」とか、「拉致していない」と言われました。2年前に調査が始まったことを北朝鮮のニュースでもやりました。知っているはずです。それなのに何も来ていない。
「今回の調査から始まった動きの中で、被害者が帰れなかったら、向こうにいる人たちは精神の安定が保てなくなるだろう」と、向こうで抑留された経験者が話しています。
我々はそういう場所に39年間も被害者を置き去りにしてきてしまった。それが39年前以降のことです。
今日こういう中で少し嬉しいニュースです。平沼赳夫先生が、少し休んでおられましたが、「拉致問題は絶対に解決する」という意思で復帰してくださって、主催者拉致議連を代表して挨拶をしてくださいます。


■今日の集会の意味

今日の集会の意味ですが、今何人もの方が言及されたように、核・ミサイル問題が中心課題になっている。世界中で核の暴風雨が吹いている。そういう中で、拉致被害者を助けるという旗が、我々が何もしなければ、飛ばされてしまうかもしれない。無視されてしまうかもしれない。
しかし、被害者が向こうで待っている以上、この旗を飛ばされるわけにはいかない。今日の集会は北朝鮮問題を解決する集会ではありません。拉致被害者を助け出す集会です。我々はどんな厳しい状況があっても、日本人を日本が助けるために、我々は加藤大臣や要路の方々に訴えています。
拉致・核・ミサイルを全部解決しなければならない。しかし、やり方があるだろう。切り離してほしい。拉致問題と核・ミサイル問題を切り離して、命がかかっている拉致問題を先行し、日本が今かけている制裁の中で国際制裁以上の強い部分について、これをポケットに入れて、一日でも早く、向こうにいる人たちの精神の安定が保てている間に取り戻してほしい、それも最優先でとお願いしてきました。
今、総理も大臣もそのような趣旨の話をしてくださいました。平壌は聞いていると思います。我々はあなたたちに強い圧力をかけるが、被害者を助けるために協議に応じる準備はできている。最優先で拉致問題を話し合う。3つすべてが解決しない限り動かないということではない。
できることと、できないことがあるが、絶対に取り戻すという決意を、平壌に対して、そして世界に対して発信することが今日の集会の意味です。


■今は対策本部があるから、外務省だけが行うことだけではない

中山先生が平壌宣言のことをおっしゃいました。
14年前に5人が帰ってきた。その時出されたのが平壌宣言です。そして先ほど私が申し上げました拉致対策本部ができたのは、14年前ではなく10年前です。
北朝鮮が拉致を認めたにも関わらず、この時対策本部ができなかったのです。
政府の中で拉致をやる部署は外務省だけだったのです。その時、家族支援室というのをやっと作ってもらって、初代の参与に中山先生がなってくださいました。
我々は外務省と激しく喧嘩をしました。今対策本部があり、大臣もおられますので昔からあるように思えますが、拉致が起きて39年、北朝鮮が拉致を認めてからでも14年になるのに、対策本部は10年しか経っていない。安倍晋三第一次内閣がなかったら、今もなかったかもしれない。それでもまだ解決できない。
日本という国では、日本人が拉致されているということを知っていながら、担当部署を作ることも、北朝鮮が認めた時ではなくて、少数ながらも政治家として頑張ってきた人が総理になった時、やっとできた。
それを作らせたのは我々の運動です。1997年に家族会、救う会ができ、99年に第1回国民大集会を開催しましたが、その時に政府の中に拉致問題担当部署を作れという要求を出しました。それが約10年後、安倍総理になってできました。
今も我々は、中山先生がおっしゃったように、拉致問題と核・ミサイル問題を切り離して、最優先で被害者を取り戻せと言っています。対策本部があるから、外務省だけが行うことだけではない仕組みができています。
そうじゃなければ、外務省の人が今国連に行って、核はけしからんと言わなければならない。そういう役割です。しかし、加藤大臣は拉致担当大臣で核担当大臣ではありませんから、被害者を返せという担当の人が、内閣にいるのです。こういう時だからこそ、こういう仕組みを使ってもらわなければ困ると、強く思っています。


■新しい署名用紙にご協力を

みなさんにお願いしていることの一つに署名があります。
今現在、11,627、997筆、約1162万筆になりました。今日から家族会・救う会の署名用紙を変えます。皆さんにお配りしましたが、「政府は厳しい圧力を背景にしてすべての拉致被害者救出を先行させよ」というものです。
核問題の暴風雨が吹いている時ですが、核・ミサイルと切り離して、拉致解決を先行させてほしい。自国民保護ということを忠実にやってほしいということですので、今まで政府に「全被害者を助けてほしい」という署名をしてくださった方も、趣旨が違いますのでできますし、この署名を緊急に集めたいと思いますので、是非ご協力くださいますようお願いいたします。


■全被害者を返せば制裁一部解除や人道支援はできる

本当に核の暴風雨が吹いている。世界中が北朝鮮に圧力をかけようとしている。
この中で旗を上げないと、我々がしっかりその旗を握っていないと、飛ばされちゃうんです。だからこそ、今日は拉致だけの集会を開きました。
北朝鮮も、核はアメリカ向きで日本向きではないとうそぶいています。それは荒木さんもちょっと言いましたが、日本から取りたいものが残っているんです。
我々も出してもいいと思います。全員帰ってくるならば。
政府が圧力をかけることは、目的ではありません。被害者を助けるための手段です。制裁は2回使えます。かける時とおろすときです。人道支援北朝鮮がめぐみさんや松木さんが生きていることを認めれば再開できるんです。そんなに人道支援がほしいなら、全被害者を返しなさい。そういう圧力の結果を今大臣のポケットに我々は入れました。それを是非使っていただきたい。
国際連携と圧力で全員を取り戻すというのはそういうことです。国際連携と圧力が目的ではないんです。圧力をかけて、いやなら返しなさいという交渉をする。
その時、中山先生もおっしゃっていましたが、国交正常化とかそういうことを言ってはいけない。全被害者を返すことに集中して決断しなさい、と。決断すればできることがありますよ、と。
もちろん日本として核・ミサイルも絶対解決しなければなりませんが、先行することはできる。被害者をまず安全に取り戻す。北朝鮮で武力事態が起きたり、大混乱が起きる前に、安全に全員取り戻すために必死で知恵を絞らなくてはならない。
圧力をかけてきました。国際連携も本当に全力でやってきました。何回我々はアメリカに行ったか、ジュネーブに行ったか。それが実を結んできています。総理も首脳会談100回以上、全部拉致を言っているとおっしゃいました。
核問題で国際社会が圧力をかけている中でも、「安倍ならしょうがない、拉致を安倍がやっているんだ」と思わせるくらいの印象を世界に与えることができるような外交をしてくださっていると私は思っています。
だからこそ今、世界中が北朝鮮を非難している。核を持っている、弾頭まで作っているのはけしからんと言っている。この大きな嵐の中で、我々はしっかり拉致の旗を持って、拉致も絶対諦めずに解決する、先行して先に解決する、それが自国民保護の責任である。我々日本人が日本人を助けるんだ。そういう決意を強く、強く今日発信していきたいと思います。


■最終決戦は続いている

「最終決戦は続いている」と我々は言っています。この決戦に勝たなければなりません。これまで我々が運動して築いてきた「制裁と国際連携」で圧力を今使う時です。

ありがとうございました。
以上をもちまして閉会とします。
ありがとうございました。

■政府拉致問題HP
http://www.rachi.go.jp/
警察庁HP
http://www.npa.go.jp/
救う会全国協議会HP
http://www.sukuukai.jp/
特定失踪者問題調査会HP
http://www.chosa-kai.jp/



【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.