もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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舞鶴公園(福岡城)

【2013年3月14日】

「草履方々、木履方々」
これは、黒田官兵衛が臨終の際、息子・長政に草履と下駄(木履)を片方ずつ渡した逸話を指す。
世間一般には



「決断しなければならないときは決断し、決断したならばすぐ行動せよ」



ということを伝えんがために草履と下駄を片方ずつ渡したと言われる。
「慌ててもいいから、すぐに行動しろ」ということを長政に伝えたかったのだ。

が、本当にそうか?
官兵衛には別に伝えたかったことがあったんじゃないのか?



黒田官兵衛は主君・秀吉のため、摂津有岡城主・荒木村重の謀反を翻意させるべく使者に立ったが、官兵衛は村重によって有岡城の土牢に幽閉されてしまった。
劣悪な環境での幽閉は1年に及び、救出された頃には片足に障害が残り歩行困難になってしまった。
このとき、官兵衛は身体障害になったことを恨みには思っていない。
信じて仕える主君・秀吉のために働いたのだという気持ちのほうが強かった。

しかし、その信じる主君から遠ざけられる。
理由は、本能寺の変の一報を受けたときだった。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして泣き続ける秀吉。
その秀吉に向かって官兵衛は



「殿、これは天下取りの好機!」



と進言した。

これが平均点の武将なら何の問題も無いのだが、相手は羽柴藤吉郎。信長とは違ったタイプの天才なのだ。
秀吉はこの一言を聴いたとき、「おまえの言う通りだ」と返事したが、腹の中では



「こいつは簒奪をそそのかす奴だ。危ない」



と思った。



山崎の戦いのあと、秀吉は官兵衛を遠ざけた。
また、秀吉は天下を取ったあと官兵衛には豊前中津12万石しか与えなかった。
さらには側近たちに



「オレが死んだら、天下を取るのは中津にいるあのびっこだ」



と、警戒していることを露骨に口にした。
これを知った官兵衛はさっさと隠居して如水と名乗った。



こんな経緯がある。
「こんなからだになってまで仕えたのに、この仕打ちか…」
官兵衛はそう思った。
そのため、長政に草履と下駄を片方ずつ渡したのは、長政に



「おまえは家康に強い忠誠心を持っているが、家康にこういう扱いをされないように気をつけろよ」



と言いたかったのかも知れない。



「オレは仕える主君を見誤ったために片足が草履しか履けないからだになってしまった」
官兵衛はそれを、心のどこかで悔やんでいたかも知れない。