もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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【みんな生きている】日比谷公会堂(17)曽我ひとみさん

曽我ひとみ(曽我ミヨシさんの娘)


■次の集会は母親の手を引いてこの場に立ちたい

皆さんこんにちは。
今日は、皆さんお忙しい中、こんなにたくさんの方がこの集会のために足を運んでいただき、心から感謝しています。
ありがとうございます。
今、交渉の最中で、私も毎日、毎日、落ち着かない日々を送っています。今日は、私が拉致される前に、私が大好きな、大好きな、世界で一人しかいない一番大好きな母が買ってくれた時計をして、この集会に来ました。皆さん、見えますでしょうか。
北朝鮮にいた24年間、本当に母親代わりになって叱ってもくれました。励ましてもくれました。本当に心が折れて、もうどうしようか、どうしようかと思った時に、この時計を見ながらいつも勇気をもらって、こんなことで弱音をはいていてはだめだ、絶対に大好きな故郷佐渡に帰るまでは一生懸命頑張っていこうと自分に言い聞かせてきました。
この次の集会には、母が買ってくれたこの時計ではなく、私と一緒に母親の手を引いてこの場に立ちたいと思っています。この次の集会は、必ずお祝いの集会にしたいと心から思っています。
皆様も大切な、大切なご家族がおありだと思います。その方が、本当に急にいなくなったらと、もう一度お考えください。そしてもう時間がありません。皆さんご高齢になられ、本当に一日一日が大切な時間です。今まで皆さん方のご支援をたくさんいただいてきました。
しかし、これからが勝負だと思います。皆様方にはこれまで以上にご支援、ご協力、どうぞ宜しくお願いいたします。



◆昭和53(1978)年8月12日
母娘拉致容疑事案
被害者:曽我ひとみさん(拉致被害時19歳)
被害者:曽我ミヨシさん(拉致被害時46歳)
「2人で買い物に行く」と言って出かけて以来失踪。
ひとみさんは平成14年10月日本に帰国。
ひとみさんの夫(ジェンキンス氏=アメリカ人)と2人の娘も平成16年7月に渡日・帰国。
北朝鮮側は、曽我ミヨシさんは北朝鮮に入境していないとしている。
捜査当局は、拉致実行犯である北朝鮮工作員・通称キム・ミョンスクについて、平成18年11月に逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求している。

※「私は、1978年北朝鮮に拉致されました。ちょうどお盆の前の8月12日の土曜日でした。私は看護師の仕事をしながら、決まって土曜日には家に帰り、日曜日の午後にまた寮に帰るという生活が続いていました。ちょうどその日も土曜日で、午後家に帰りました。お盆前ということで、母が少し足りないものがあるので買い物に出かけようということになりました。その時、6つ違いの妹がいたんですが、妹も母と一緒にでかけたい、私も1週間会えなかったので1週間にあったことを色々話をしたかったので、一緒に行くより母親と二人きりで行きたいなという気持がありまして、妹とちょっとだけけんかをした覚えがあります。それで結局、私と母と一緒に買い物にでかけることになりました。行きは病院であった話などを色々しながら、楽しく店まで着きまして、店で買い物を終えてまた家に帰る途中のことでした。歩道を歩いていたんですが、もう薄暗くなっている時間帯で7時は過ぎていたと思います。夏場ですので、7時を過ぎてもまだぼんやりと明るいくらいの時間帯でした。母と話をしながら歩いていましたら、何かちょっと後ろの方から人の気配を感じまして、一
度後ろを振り向きました。そうしたところ、男の人が三人、縦並びじゃなく、横並びで、私たちのあとをゆっくりとついてくるのが見えました。“なんか変な男の人たちが後ろから付いてくるね”と母と話しながら、“気味が悪いから早く帰ろう”と、少し足早に歩き始めた時でした。後ろから三人の男の人が急に駆け寄ってきまして、道端にある植え込みの中に私と母親を引きずりこみました。その時私は口を塞がれて、袋を被されました。一緒にいた母親は、そのとき以来一度も声を聞くこともなく、姿を見ることも今までありません。本当に夢のような話で、自分自身もよく分からないところがいっぱいあります。その後ですが、私は袋に入れられたまま小さな船のところまで行きました。その船の上にしばらくいましたが、ちょっと離れた所で日本語を話している声が聞こえてきました。その日本語は佐渡の人が話している佐渡弁ではなく、日本人でもない、ちょっと発音が違う、そんな印象を受けています。私も袋を被されたままの状態だったので、話している内容というのはよく分かりません。その後、しばらくしてから大きな船に乗せられて、次の日の夕方北朝鮮清津(チョ
ンジン)というところに着きました」
曽我ひとみさんの証言)