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【みんな生きている】日比谷公会堂(1)-3

本間 勝(田口八重子さんの兄)

みなさん、本日はありがとうございます。
八重子が22歳で東京の池袋から拉致されてからはや37年、もう59歳になります。59歳になるということが頭の中に整理できない状態になります。
兄弟は八重子を含めて7人で、八重子は末っ子です。一つ上の姉は昨年9月八重子に会えずに亡くなりました。そのように、兄弟も会えなくなる事情が出ています。本当に悲しいことです。
私は八重子を取り戻す、つまり「死亡」とされた8人の中にいるわけですが、先ほど耕一郎が言ったように、まず「死亡」をくつがえし、そして生存者をすぐ返すということを即刻やってもらいたい。
それと、八重子の母親というのは新潟県佐渡の相川の出身です。私たちの故郷にもなっているわけですが、泉田知事がせっかく来ておられますので、申し上げます。
知事は、万景峰(マンギョンボン)92号がうるさく入港してきた時に、ラウドスピーカーで、「そのような対応を取るならば入港を禁止させる」とおっしゃっていただきました。新潟港の信濃川の入港に関しては、港を管理する権限は知事にあるわけです。
そして万景峰92号というのは、多くの工作員に拉致され、私たちと一緒に川口で戦っている藤田さんの兄・進さんが運ばれたと聞いています。だから拉致被害者が全員帰国するまでは絶対万景峰92号を入港させないでいただきたいと思います。
佐渡曽我ひとみさんのお母さん曽我ミヨシさん、特定失踪者の大沢孝司さんが失踪されています。新潟はたくさんの拉致被害者が出たということで、その中で泉田知事が先頭に立って戦っていただいていることは本当に心強いと思います。
次に拉致被害者が万景峰に乗せられて帰ってこなかったら、ダメよと約束してください。私たちは戦っている最中なので、心強いお言葉をいただいたということは、これからの北朝鮮との交渉でも、拉致被害者を返さなければ新潟港へ入れない、新潟県との経済的成果も得られないことを頭に入れて、再調査を今考えていると思います。
皆さんどうぞ、そういう流れを、関連したことも含めて考えて、私たちの、今の所尽きない戦いですが、ご支援いただきたいと思います。
宜しくお願いいたします。



◆昭和53(1978)年6月頃
李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案
被害者:田口八重子さん(拉致被害時22歳)
昭和62年11月の大韓航空機(KAL)爆破事件で有罪判決を受けた元北朝鮮諜報員金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏は「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の振る舞い方を学んだと主張している。この李恩恵は行方不明となった田口さんと同一人物と考えられる。
北朝鮮側は、田口さんは1984(昭和59)年に原 敕晁さんと結婚し、1986(昭和61)年の原さんの病死後すぐに自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
平成21年3月、金賢姫氏と飯塚家との面会において、金氏より田口さんの安否にかかる重要な参考情報(注)が新たに得られたことから、現在、同情報についての確認作業を進めている。
(注)金氏の発言:「87年1月にマカオから帰ってきて、2月か3月頃、運転手から田口さんがどこか知らないところに連れて行かれたと聞いた。86年に一人暮らしの被害者を結婚させたと聞いたので、田口さんもどこかに行って結婚したのだと思った」

※「八重子さんが北朝鮮南浦港に着いたとき、女性通訳に“私には子供が二人いて、どうしても日本に帰らなくてはならないので、返してほしい”と何回も言ってお願いしたそうです。八重ちゃんの思いは最初から最後まで子供のことでいっぱいでしたし、今でも間違い無く“今、彩ちゃんはいくつになって、耕ちゃんはいくつになった”と毎年計算して、どんな大人になったか知りたがっているはずです。すごく会いたがっていると思います」
拉致被害者・地村富貴恵さんの証言)

◆昭和55(1980)年6月中旬
辛光洙シン・グァンス)事件
被害者:原 敕晁さん(拉致被害時43歳)
宮崎県内で発生。
本件については、北朝鮮工作員辛光洙シン・グァンス)が韓国当局に対し、原さん拉致を認める証言をしている。
捜査当局は辛光洙について、これまで原さんに成りかわった容疑で逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求してきたが、平成18年4月には、新たに拉致容疑の主犯として逮捕状が発付されている。
北朝鮮側は身柄の引渡しに応じていないどころか、同人を「英雄」として称えている。
また、捜査当局は原さん拉致容疑の共犯者である金吉旭(キム・キルウク)についても逮捕状の発付を得ており、国際手配を行うなどの所要の措置を講じている。
北朝鮮側は、原さんは1984(昭和59)年に田口八重子さんと結婚し、1986(昭和61)年に肝硬変で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

※「辛光洙は原 敕晁さんになりすますために、原さんについてのあらゆることを調べあげた。それこそ、チャーハンの作り方まで調べあげた」
(石高健次さん)