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岡城

【2013年3月19日】

豊後岡藩。
7万4千石のこの藩の藩祖は中川秀成という男だ。



中川秀成は播磨三木藩主・中川秀政の弟として生まれた。父は秀吉の簒奪に協力した中川清秀である。
秀政は播磨三木13万石を領す大名だったが、朝鮮で死んでしまった。



その死に方に、問題があった。



文禄の役で渡韓した秀政は京畿道水原というところで鷹狩りをしていたところを明・朝鮮連合軍の兵に包囲されて殺害された。

秀吉の時代から藩主横死はお取り潰しがルールなのだが、秀吉はかつて秀政の父・清秀が自分の簒奪のために協力してくれたことを忘れてはいなかった。
そのため、秀吉は



「持高半知で中川家の存続を許す」



とした。
半知とは領地を半分にするという意味だ。

13万石のうち6万6千石の相続が認められた秀成は、横死した兄に引き続いて渡韓した。
文禄2年には文禄の役の中で一、二を争う激戦である晋州城の戦いに参戦した。



翌、文禄3年2月。
秀成は晋州城攻撃の功績により8千石加増され播磨三木から豊後岡へ転封となった。
豊後岡7万4千石はこのとき確定。以後、岡藩は一度も国替えを経験すること無く明治維新を迎えた。



この岡藩に一度だけお取り潰しのピンチが訪れる。
関ヶ原の際、黒田如水(官兵衛)が



「中川秀成、石田方に内通」



といえやっサンに通報したのだ。
関ヶ原の本戦に駆けつけられなかった大名の中には、このように他の大名のことを告げ口して生き残ろうとする者がいた。
東北で言えば南部家と最上家がそれで、伊達政宗についていえやっサンにいろいろと通報している。



いえやっサンは加藤清正に秀成の討伐を命じたが、清正は



「あのびっこのことだ。何か企んで中川どのを訴えたかも知れん」



と、最初は様子を見た。
「あのびっこ」とは如水が歩行障害だったことを指す。

清正の読みは正しかった。
秀成に石田方への内通の意図は全く無く、佐賀関の戦いでは数百人の犠牲を払いながら豊後臼杵城を攻略。
これを見た清正は「中川どのに異心無し」といえやっサンに報告した。



戦後、いえやっサンは



「中川どの、佐賀関では苦難されたのう。話は主計頭どの(清正)から聴いた。豊後岡7万4千石はお構い無しじゃ」



と、にっこり笑った。



言われ無き告げ口に対して戦場で結果を出した秀成。
秀成は見事、岡藩を守り抜いた。