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小田原城

【2013年4月2日☆】

宝永4年11月23日。
この日の朝10時頃、小田原藩領のうち163ヶ村を壊滅させる巨大災害が発生した。
富士山が噴火したのだ。



この噴火で大量の軽石と火山灰が小田原藩領内に降り注いだ。
このため、田畑は壊滅。農民は暮らせなくなった。
特に被害が大きかった足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村は「営農不能」と判断され、幕府はこの163ヶ村を上知して伊豆・美濃・播磨のうちで替え地を用意した。



富士山噴火と領内被害の一報を聴いた小田原藩主・大久保忠増は愕然とした。
愕然としたが、何も出来なかった。
大久保忠増は老中職のため江戸を離れるわけにはいかなかったのだ。
忠増は江戸詰の家臣・柳田九左衛門を小田原に派遣して現状の視察と被災地への対策指示を命じた。
のちに柳田からの報告を聴いた大久保忠増は救恤米の施しと軽石・火山灰除去費用の藩負担を決断した。
以後、小田原藩では藩と領民が協力し合って復興にあたった。
小田原藩の面白いところは、藩が領民に対して支配者として圧力を加えるのでは無く、領民に協力しながら復興に取り組んだことだ。



噴火の被害は小田原藩領だけにとどまらなかった。江戸にも火山灰が降り注いだのだ。
このときの様子を新井白石は『折りたく柴の記』の中で



「雪のふり下るごとくなるをよく見るに、白灰の下れる也」
(宝永4年11月23日)
「黒灰下る事やまずして」
(宝永4年11月25日)



と書いている。
23日は白い灰だったのに、25日には黒い灰に変わっている。灰の成分に変化があったことを白石は書き残しているのだ。
江戸では降り注いだ火山灰を江戸城の濠に廃棄する者が続出した。そのため幕府では「火山灰を濠に捨てちゃダメだ」と取り締まりをする始末だった。



幕府でも役人を数名現地に派遣して被害状況を調査した。
報告を受けた幕府は大名・旗本に持高100石につき2両(10万円)の復興費用の負担を命じた。
復興費用は40万両(200億円)集まったが、あろうことか幕府はこのうち16万両(80億円)だけを復興に充て、あとは幕府の予算に流用してしまった。
ひどい話だ。



被災地の復興は思うようにいかなかった。
綱吉・家宣・家継・吉宗と四代にわたり復興作業は続き、上知した163ヶ村が小田原藩に返還されたのは延享4年。上知から30年以上も経っていた。