もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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松山城

【2012年5月18日】

貝賀弥左衛門友信。
播磨赤穂藩士で蔵奉行を務めていた。
この蔵奉行の一生が決まってしまったのが藩主・浅野長矩の刃傷事件だ。
城地没収。
弥左衛門は他の藩士同様、蔵奉行から浪人になってしまった。

弥左衛門は「喧嘩両成敗が守られないのはおかしい」と仇討ちメンバーに加わった。
弥左衛門は慎重な性格だったため、大石から大きな信頼を得ていた。
その大きな信頼から、弥左衛門は大石から一つの仕事を指示される。



「神文返し」
ドラマ等ではこう呼ばれる。
これは、当時討ち入りメンバーに名を連ねていた100人あまりの浪人たちへわざと誓紙血判を返却し、意思の固さを確かめるというものだ。
浅野長矩切腹から吉良邸討ち入りまで1年9ヶ月。これだけの期間、内通者を出さずに討ち入りを成功させるには相当な組織の管理力が必要だが、「神文返し」は組織を管理するうえで必要なことだった。

大石は弥左衛門と大高源五の二人に「神文返し」を指示した。
大石は二人に



「誓紙血判を返すとき、相手には『詳しいことはよくわからないが、どうも赤穂に対する世間の風説が悪いので討ち入りなどやれそうにない。加えて、血判をもって徒党を組むのは御法度(法律)に触れるので血判をお返しいたす』と言えばよい」



と指示した。

弥左衛門と大高源五は「神文返し」の指示を受けたとき、「受け取る者はおるまい」と同志の情を信じていた。



しかし…



「神文返し」で誓紙血判を受け取って仇討ちメンバーから抜ける者、50人以上。
弥左衛門は愕然としたが、同時に



「御城代は、これを見越していたのだ」



と、大石の慧眼を改めて思った。

人数は50人程度まで減ったが、この50人は強固な意思を持った「本物の同志」。なので、内通者は出なかった。
1年9ヶ月もの間、組織の鉄の結束を守るにはこういう「変化球」も必要だった。そしてその「変化球」を投げるには、慎重な性格の人物が必要だった。それが貝賀弥左衛門なのだ。



討ち入り後、弥左衛門は大高源五ともども伊予松山藩久松松平家へお預けとなった。
初め松山藩では弥左衛門たちを罪人扱いしたが、のちに扱いを改めた。

もてなしは丁重だったが、お預け以後の弥左衛門にはつらい日々が続いた。
持病が出て、症状に苦しむ毎日だった。
松山藩では針医を世話して弥左衛門の治療にあたらせた。



貝賀弥左衛門、享年54。