もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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大阪城公園(大坂城)

【2012年6月14日】

「石田治部少輔め、なんちゅうことを…」
慶長5年の夏の暑い盛りの日、大坂城京橋口に晒された首を見て怒りに震える男が一人いた。
その男、名をば佐野四郎右衛門という。
京の呉服屋の主人で、早くから徳川贔屓だった。

四郎右衛門は晒されている首を見て怒りを爆発させた。
その首は、いえやっサンの家臣・鳥居元忠の首だった。

四郎右衛門は元忠の生前に恩を受けていた。
四郎右衛門は「このままやと鳥居様が成仏でけんわ」と思い、夜、元忠の首を奪い返して知恩院に葬った。今日の長源院がそれである。



鳥居元忠はいえやっサンの命により伏見城を守っていた。
そこへ、西軍の長束正家の軍勢が攻めて来た。
元忠は少ない兵力ながらもよく守ったが、慶長5年8月1日に落城した。

長束正家の部下に鵜飼藤助という甲賀者がいて、この鵜飼が伏見城内に内通工作をした。
工作は成功し、内通者たちは城の内側から火をかけて城壁の一部を破壊して長束軍を招き入れた。

元忠は三度長束軍を撃退したが、ついに力尽き、長束軍を前にして



「オレの名は徳川家中で知らぬ者無い鳥居元忠だ!この首取って手柄といたせ!!」



と大声で叫ぶと、その場で腹を切って死んだ。

鳥居元忠の首は大坂城に届けられ、京橋口に晒された。
そしてそれを見た佐野四郎右衛門が首を奪い返して知恩院に葬ったのだ。

これを知った石田三成が犯人探しを始める。
三成が犯人探しをしていることを知って、四郎右衛門は自首した。わざと自首したのだ。

三成直々に取り調べると、四郎右衛門は



「治部少輔様、伏見落城の話、聞きましたわ。汚いで。それが天下の太閤サンのいくさかいや。商人(あきんど)でもそんなやり方、思いつかんわ」



と言い放った。

「罪に問うなら問うたらええ。首打つちゅうんなら打てばええ。ただな治部様、もし治部様がおんなじ立場やったら、太閤サンの首、奪い返しましたやろ?」
四郎右衛門は三成から眼を逸らさずにはっきりと言った。

「おんなじ立場やったら、太閤サンの首、奪い返しましたやろ?」
眼の前にいる呉服屋の主人のこの言葉が、三成のこころに鋭く突き刺さった。
三成がいえやっサンと戦う決心をしたのは故・秀吉への恩義である。
四郎右衛門もまた、鳥居元忠への恩義のために首を奪い返したのだ。



「おまえもオレも同じよ」
三成はこう言って佐野四郎右衛門を釈放した。