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松山城

【2012年6月15日】

中村勘助正辰。
赤穂藩書物役、家禄100石。
この男もまた、浅野長矩の刃傷事件のためにその後の人生が決定してしまった一人だ。

もとは陸奥白河藩士・三田村小太夫の息子で、播磨赤穂藩士・中村庄助の婿養子となり中村家を継いだ。
勘助は他の赤穂浪人と違い、ごくごく普通の男だった。
元禄7年、のちに同じ討ち入り同志となる岡島八十右衛門に宛てて書いた手紙から、それが読み取れる。
この年、勘助は藩命で備中松山城在番を命じられて備中松山に赴任した。
赴任した年の冬、勘助は八十右衛門に手紙を書いた。



「赤穂と違って備中松山は寒くて綿入れが無いと眠れない」
「赤穂よりも酒が高値でなかなか飲めない。つまみになるものも無いので、つまみになるものと塩を送ってくれ」



生活感のにじみ出ている、ごくごく普通の手紙である。

この備中松山城在番は、前備中松山藩主・水谷勝美が無嗣収公でお取り潰しになったためのもので、在番担当の家老は大石内蔵助。勘助はこのとき一度内蔵助の下で働いたことになる。
元禄8年5月、次の備中松山藩主に安藤重博が決まると、勘助は大石ともども赤穂に帰国した。



浅野長矩の刃傷事件ののち、勘助は他の藩士同様浪人した。
勘助は長矩をひどく恨んだ。「オレは普通の暮らしをしたかっただけなのに」と。

勘助が討ち入りメンバーに加わった理由は、この「普通の暮らし」を取り戻すためであった。
仇討ちが成功すれば、どこかの大名に再仕官(再就職)出来てまた普通の暮らしが出来る。そう思って勘助は討ち入りメンバーに加わったのだ。

勘助は京都に潜伏したが、同志たちに「カネが無くて炭が買えないので、都合して欲しい」と手紙を書いている。
また、討ち入りが正式に決まると、勘助は一路陸奥白河へ向かう。白河にある実家・三田村家に長男・次男・長女を預けるためである。
このときの路銀についても同志へカンパの手紙を書いて募っている。「白河に子供を預けに行くから、路銀を貸してくれ」と。どこまでも普通の男である。



この普通の男は、討ち入りでは裏門組に属して自慢の槍を奮って活躍した。
そして本懐を遂げて大目付に自首。
勘助は「お咎めののちにどこかの大名に再仕官が叶い、普通の生活に戻れる」と甘い期待をした。



しかし、甘い期待は見事外れた。
中村勘助正辰、享年48。
勘助はお預け先の伊予松山藩江戸屋敷切腹を命じられた。