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【みんな生きている】駐ラオス韓国大使館編

《駐ラオス韓国大使館が脱北者に対して繰り返してきた「雑な対応」》

今回、未成年者を中心とする9人の脱北者北朝鮮に強制送還されたことが大きな問題となっているが、これまでも韓国大使館は脱北者に誠意のない対応を繰り返してきたことが、6月2日までに分かった。
ラオス脱北者の支援活動を行っているA氏は2日

「子ども4人を含む脱北者16人が2009年8月、中国を経由してラオスに到達し、現地で身柄を拘束されたことがある。このときラオスの韓国大使館は誠意のない対応を繰り返し、脱北者たちは3回も中国に追放された」
「その際、脱北を支援した2人の支援者も20日以上にわたり拘束され、後にラオスから追放された」

と語った。
A氏によると、上記の16人には子ども4人の他に重症の結核患者1人、さらに北朝鮮に残した家族を連れ出そうとして中国公安(警察)の追跡を受けていた脱北者たちが含まれていたという。
脱北者たちは2009年8月に中国国境を越えてラオスに入ると同時に、ラオス国境警備隊に身柄を拘束された。直後に脱北者たちを支援していた支援者は韓国外交部(省に相当)に状況を説明し、A氏もラオスの韓国大使館に支援を要請した。
これに対して韓国大使館は「ラオス政府と協議を行っているためしばらく待つように」と回答したが、16人は4日後の8月31日、中国に追放された。後に脱北者たちは再び国境を越えてラオスにやって来たが、やはり直後に拘束された。
A氏が韓国大使館に抗議すると、大使館関係者は「心配するな。(ラオス政府は)しっかりと保護しているそうだ」と回答したが、このときも数日後にやはり追放された。16人はその後も1回ラオス警察に拘束され追放されたが、最終的には何とか韓国入りできた。当時、脱北者たちを支援したとして身柄を拘束された支援者もラオスで身柄を拘束されたが、韓国大使館からは1回も面会に来なかった。
また、2009年3月にも、17人の脱北者が中国国境を越えてラオスに入った直後に身柄を拘束された。
A氏によると、この事実はラオス政府から韓国大使館に通知されたという。ところが韓国大使館が対応を先送りする間に、ラオス政府は脱北者たちを船に乗せてミャンマー国境付近に追放した。後に複数の支援者がミャンマーに向かい、脱北者たちをタイに連れ出したという。現地の支援者たちは主に東南アジアで脱北者支援活動を行っている宣教師たちだ。
支援者たちは

「今回の事件は脱北者9人がコッチェビ(浮浪児、孤児)だったという点と、北朝鮮政府の介入があった点が今までとは違っていた。しかし、韓国政府の無関心により放置されている脱北者は少なくない」

と指摘する。
これについて、『朝鮮日報』紙が韓国政府の言い分を聞くため、6月2日にラオスビエンチャンにある韓国大使館に取材を申し込もうとしたが、入り口は固く閉ざされていた。
対応した職員は「担当の領事は今、外出中でいない。(脱北者追放問題について)回答できる人間はいない」と語った。
担当の領事にも何度か電話での取材を試みたが、電話に出なかった。
一方のラオス外務省は1日、アメリカのラジオ放送局・自由アジア放送(RFA)に送った電子メールで

「(5月10日に)国境地帯で身柄を拘束した11人のうち、9人は14歳から18歳の北朝鮮国籍で、2人は韓国国籍だった。(2人は脱北した未成年者たちの)人身売買を行っていた」

と主張している。
この電子メールは、これまでは拘束した脱北者を韓国側に引き渡していたが、今後はこの慣例を見直す方針だということを示唆していると解釈される。そのため、今後はラオス経由の脱北ルートが事実上、なくなるのではないかと懸念されている。
ラオス政府の主張に対し、9人の脱北を支援してきた北朝鮮自由連合のスーザン・ショルティ代表はRFAからの取材で

脱北者たちが人身売買に巻き込まれたとする主張は何の根拠もない卑劣な嘘だ」
脱北者たちが韓国に行きたがっていたことは、ラオス政府も明らかに知っていた」

と非難している。
また、ショルティ代表は

「実際は15歳から23歳のはずの9人について、ラオス外務省が14歳から18歳と若く言っている理由は、韓国行きを希望するという意思表示ができない子どもだと主張するためだ」

と指摘した。

【コチェビ】
家族や親戚等の身寄りがなく路上生活をしながら物乞いをする人を指す北朝鮮の表現。
「コチェビ」の語源は複数あるが、「流浪、遊牧、さすらい」という意味のロシア語「コチェビエ(кочевье)」に由来するというのが最も有力。
北朝鮮の外交官や海外駐在員たちは帰国後に必ず「思想総和」を行なわなければならない。1989年旧ソ連崩壊後、1990~1992年の間にロシアから帰国した北朝鮮の外交官たちは「旧ソ連社会主義を放棄したことにより、人民生活が破綻し浮浪者が急増した。彼らを見て我々式(北朝鮮社会主義を最後まで守らなければと確信した」という回答が流行した。
北朝鮮の外交官は小型ビデオカメラでロシアの浮浪者の姿を撮影し、ロシアの実態として説明したりもした。その際、「コチェビエ」という単語が北朝鮮の幹部たちに初めて紹介されたと伝えられる。
1995年の春、飢えに苦しむ地方住民が平壌に移動し始め、彼らの姿を見た幹部たちが「我が国にもコチェビエが誕生したか」と嘆き、一般住民の間に「コチェビ」という言葉が広く使用されるようになった。



※「親北勢力は胸に手を当てて考えて欲しい。もし、あなたの子供たちが食べ物に飢えて栄養失調になり、骨だけの痩せ細った体で勉強を諦め、市場のゴミ捨て場を漁っていたら、どんな気持ちになるだろうか。そうせざるを得ない社会に憧れを持つことなど出来るだろうか」
脱北者Aさん。脱北者手記集より)