もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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大阪城公園(大坂城)

【2012年11月26日】

慶長20年5月28日。
片桐東市正且元、京都の自邸にて自害。
享年60。



且元は古くからの豊臣家の家臣で、秀吉亡きあとは秀頼をよく支えた。
秀頼をよく支えたということは、いえやっサンの眼から見たとき、取り除くべき邪魔者ということになる。

いえやっサンは策を用いて且元を豊臣家から引っぺがした。
いえやっサンは淀殿の取り巻きの女性たちをだまして「且元は徳川と内通している」と信じ込ませ、また、その噂を流させた。
淀殿は簡単にこのデマカセを信じ、大野治長たち秀頼側近の連中もこのデマカセを信じた。
且元はとうとう大坂城にいられなくなった。

慶長19年10月1日。
この日、且元は大坂城を退去した。
そしてこの日が、いえやっサンが豊臣家に対して宣戦布告をした日でもある。

且元はいえやっサンの指示で大坂城砲撃に加わった。
一説には且元軍の大砲の砲弾が大坂城天守閣に届き、これに驚いた淀殿が講和を急いだとされる。

砲弾が天守閣に命中すると、淀殿は狂ったように大野治長に対して



「修理ッ!何をぐずぐずしておるのじゃ!関東と講和じゃ!」



と急かした。

このような調子なので、講和は徳川ペースで進んだ。
そしてついに、後年、いえやっサンに「狸親父」という悪名を決定させる講和の条件文を豊臣家に承諾させる。

それは



城の総濠を埋めること



という一文だ。
豊臣家はこの「総濠」を「惣濠」の書き間違いだと勝手に思い込んだ。
「惣濠」とはこの当時の常識で外濠を指す。「惣濠」も「総濠」も読みは同じく「そうぼり」だ。しかし、徳川家の黒鍬(土工)たちは外濠・内濠両方を埋めてしまった。

当然、豊臣家は苦情を言い立てた。
しかし、この「総濠」を思いついた本多正信



「講和の文面には『総濠』と書いておったであろう」



と鼻で笑いまともに取り合わなかった。
且元は濠が全て埋まるのを見て、「豊臣家もこれで終わりだ」と思った。

翌、慶長20年5月8日。
大坂城落城。秀頼母子、焼死。
大坂落城後、且元は京都の自邸で過ごしていたが、5月28日、何を思ったか急に脇差を抜いて喉を突いた。
享年60。



「忠義」という言葉が少しずつ定着しつつある時代。
これが下剋上の時代ならば気を病むことも無かったが、時代が「忠義」を求め始めたために且元は喉を突いた。
時代の転換期に発生した自害だった。