もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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唐津城

【2012年12月20日】

「下に命令するところを、自ら先に立って行うことを善しとす。身をもって教えれば、口でとやかく言うよりも下はよく従うものだ」
肥前唐津藩主・寺沢広高は上に立つ者の心構えについて、こう言った。



寺沢広高は豊臣政権時からの肥前唐津藩主で、徳川幕府が成立すると12万3千石の大大名になった。

しかし、この10万石級の大大名に悩みがあった。
継嗣である。
寺沢広高の妻は妻木貞徳の娘で、この妻との間に男子が二人いた。
長男を忠晴といい、次男を堅高という。
初め広高は長男・忠晴を嫡男にした。ここまでは普通だ。
しかし、次男・堅高の元服の年齢が近づくにつれ、広高は心変わりした。

広高は



「嫡男・忠晴は病弱のため廃嫡。次男・堅高を嫡男とする」



と宣言した。
ただごとでは無い。
誰が見ても忠晴は健康そのものだったし、廃嫡の理由が全く思いつかない。

寺沢忠晴は唐津藩領内の僻地へ追放され、元和8年4月1日に24歳で死去した。
死因は病死といわれているが、何せ廃嫡の経緯が経緯だ。忠晴は毒を盛られて死んだのかも知れない。
さらに2ヶ月後の6月20日、今度は肥後富岡城代の中村藤左衛門が富岡城内で追い腹を切った。
中村藤左衛門は忠晴の教育係で、忠晴廃嫡後に富岡城代に任命された。
この殉死も不可解なもので、追い腹は通常、恩を受けた者に対してするもので、藤左衛門を富岡城代にしたのは広高であり忠晴ではないのだ。

結局、寺沢堅高が正式に寺沢家の継嗣となった。
広高存命中は大きな問題は起こらなかったが、寛永10年に広高が死去するとすぐに問題が表に出た。

堅高は残虐行為を好んだ。
領内のキリシタンを徹底的に弾圧したのだ。その弾圧のやり方があまりにも残虐だった。



生きたまま炭火の上でバーベキュー
額に「だいうす」の文字の烙印押し



異常そのものである。
「だいうす」とはデウスのことだ。
また、堅高は年貢未納者に対しても手足の指の切断や、生きたまま蓑にくるんで焼殺等の残虐行為をした。

こんな性格の藩主なのだ。一揆が起こるのも時間の問題だった。
まず、唐津藩領の肥後天草で小西浪人を中心とする半農半武装の連中が蜂起した。
この半農半武装の連中の総大将が益田時貞という少年で、少年はのちに



天草四郎



と呼ばれた。



天草四郎の呼びかけで一揆は広範囲で呼応。
ついに寺沢堅高を破滅に追いやった。