もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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大阪城公園(大坂城)

【2011年1月18日】

元禄14年11月6日。
この日、大坂・曽根崎新地で若い男女の心中遺体が発見された。
男のほうは元播磨赤穂藩士・橋本平左衛門
女のほうは曽根崎新地の茶屋・淡路屋の遊女・はつ。



橋本平左衛門大石内蔵助による仇討ちのメンバーの1人だった。
17歳のときに、例のあの松之廊下事件が発生して赤穂藩がお取り潰しとなった。そしてそのまま仇討ちメンバーに加わった。

まだ17歳である。
一時の感情で「吉良を討つ!」と情熱を燃やしたとしても、それが持続するかどうか。
果たして、持続しなかった。
初め、平左衛門は京都に潜伏して内蔵助の決起を待った。しかし、内蔵助は立ち上がらない。
18歳になった平左衛門には仇討ちの情熱を持続させることは出来なかった。
同じく赤穂藩士だった者で佐々小左衛門というのがいた。この小左衛門は仇討ちメンバーには最初から加わっていない。
小左衛門は遊びに明るい男で、平左衛門を曽根崎新地に連れて行った。
曽根崎新地の淡路屋という茶屋の遊女にはつという娘がいた。はつの年齢はわからない。
平左衛門ははつにのめり込んだ。仇討ちに向けるべき情熱を全てはつに注ぎ込んだ。

内蔵助の決起が遅かったのには様々な事情があった。しかし、内蔵助はその事情を仇討ちメンバー一人一人にいちいち話したりはしない。
もし、平左衛門がもう少し年齢を重ねていれば「大人の事情」もある程度は推測したであろうし、推測出来れば我慢も出来たであろう。
しかし、18歳の平左衛門にそれは無理であった。ハタチを過ぎてさえ、一つの物事に情熱を持続させることは難しい。それを平左衛門に要求するのは酷だろう。
平左衛門ははつとずっと一緒にいたいと思うようになった。
仇討ちへの情熱はとっくに失せていた。しかし、再仕官(再就職)もままならない時代、このままでははつとも一緒になれない。
情熱が失せたあと、平左衛門は何事もかったるく感じるようになった。ダラダラとはつと過ごし、他にやることが無いのではつのからだを貪った。
そしてはつとの性交を終えると、いつも「どうすればいいんだ」という焦燥感に駆られる。
平左衛門はこの八方塞がりをリセットするため、死を選んだ。



平左衛門とはつの遺体を発見した佐々小左衛門は、同じく赤穂浪人の早水藤左衛門に知らせて遺体の後始末を依頼した。
早水藤左衛門は47士のうち、弓の名手として知られる。