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唐津城

【2011年1月19日】

大久保忠朝
肥前唐津8万3千石の藩主である。



大久保家は忠隣の代に相模小田原6万5千石を与えられ、一時は本多正信・正純父子と権勢を争った。
しかし、本多父子との権力闘争に敗れて改易された。このとき、孫で武蔵騎西2万石の藩主だった忠職も連座で改易となった。
やがて本多正純土井利勝によって追い落とされると、「反本多」の忠職は利勝の手によって大名に返り咲き、美濃加納5万石を皮切りに播磨明石7万石を経て肥前唐津8万3千石を与えられた。

大久保忠朝は、忠職の孫にあたる。
大久保家の家臣団は日頃から「小田原藩主に返り咲いて、藩祖・忠隣の無念を晴らしたい」と願っていて、それは藩主の忠朝も同じことであった。
そんな忠朝に、ある日綱吉将軍が



「おまえ、小田原藩主に返り咲きたくないか?」



と言った。
忠朝が「それはもう、叶うものなら…」と正直に答えると、綱吉将軍は



「ならば、稲葉正休を殺せ」



と言った。
忠朝は意味がよくわからず、「稲葉正休をどこで討ち取るのですか?」と聞き返した。
すると綱吉将軍は



「近日、稲葉正休が堀田筑前守を殿中で襲う。そのとき、おまえが稲葉正休を討ち取ればよい」



と言った。
忠朝はめまいを起こした。堀田筑前守正俊は大老職である。
「本当にそんなことになるのか」と思うと、事の大きさと人のいのちのことを思い具合が悪くなった。
しかし、忠朝は引き受けた。

貞享元年8月28日。
午前8時過ぎ、いつも通り江戸城に登城した下総佐倉藩主・堀田正俊は「御大老」と呼び止める男の声に気づき立ち止まると



「幕府累代の御恩に報いるため、御免!」



と叫ぶやいなや、男は正俊の腹を太刀で刺し貫いた。傷は腹から背中に抜けていて、確実に殺害する意思であったことがわかる。

「この乱心者がァッ!」
堀田正俊が大声を上げると、老中職の面々が一斉に飛び出して男に斬りかかった。
しかし、動いている人間を斬るのだ。容易では無い。なかなか刀が男に当たらない。
そんな中、忠朝が



「うがーっ!」



と奇声を上げて男に突進し、男を刺した。
そして、倒れた男をまるで野菜を切り刻むように刀で斬り刻んで殺害した。
男の名前は稲葉正休
美濃青野藩主で、堀田正俊の親戚だ。



綱吉将軍の指示通りに動いた忠朝は下総佐倉9万3千石を経て相模小田原10万3千石に返り咲いた。