もずの独り言・はてなスポーツ+物置

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大阪城公園(大坂城)

【2011年6月22日】

慶長19年、いえやっサンは駿府老中・本多正純を通して大坂城の秀頼母子に最後通告を突きつけた。



一、大坂以外への国替
一、淀殿が証人として江戸に出頭する
一、秀頼の江戸出府



この三つのうち、どれかを選ばなければ大坂城を攻撃するというもので、淀殿にとってはそのいずれも受け入れることは出来ないものばかりだった。
世間一般にはこの三つのうちの一つを選べというのがいえやっサンの最後通告と言われているが、実はいえやっサンはもう一つの案を提示していた。

「公家になられてはどうか?」
いえやっサンは本多正純を通してこう打診している。
秀吉は関白太政大臣、甥の秀次は関白左大臣、秀頼が関白になってもおかしくはないのである。

戦争に対するトラウマを抱えている淀殿はこの提案に飛びついた。
淀殿



「城も領地もそのままに、秀頼を関白にしてくれるのかえ?」



本多正純に問うた。
正純は「このオバサン、絶対アタマおかしいよ」と思いながらも、「その儀、駿府に立ち帰って大御所様に伺いまする」と言って駿府へ帰った。

駿府で正純の話を聴いたいえやっサンは



淀殿は、ちと世間とズレておられるの」



と言って笑い出した。
当然と言えば当然で、公家は五摂家クラスでようやく1万石なのだ。どこの世界に65万石の公家がいるのだろうか。

「公家になれ」と提案したいえやっサンにはそれなりの理由があった。
豊臣家を武力討伐した場合、恩賞は65万石しか用意出来ない。ならば、武家とは無関係の公家になってもらえば65万石も大坂城もすんなり収公出来るうえ、秀頼母子を殺害しなくて済む。
いえやっサンはそう考えたのだが、淀殿はいまだに「天下人は秀頼」と思い込んでいるために話が噛み合わない。

が、いえやっサンは五摂家を六摂家にしてもいいと考えていた。全国の大名を動員して65万石しか用意出来ないとなると、やはり戦争にはせずに穏便に秀頼母子を大坂城から立ち退かせるのが一番なのだ。結局、交渉は平行線を辿った。大坂城と65万石を保証しろという淀殿と1万石の摂関家になれといういえやっサンとの間の溝は埋まらなかった。



もし、淀殿がこの提案を飲んで秀頼を公家にしていたら、おそらく豊臣家は存続出来ただろう。
しかし、アタマのズレた淀殿にはそれは受け入れられない話だった。
いえやっサンはこの年の冬、大坂冬の陣を起こした。