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宇和島城

【2010年4月20日☆】

藤堂高虎はもとは大和大納言・豊臣秀長の家臣だった。
秀長の死後、跡を継いだ秀保が事故死すると浪人した。
それを秀吉がスカウトした。スカウト料は伊予板島7万石。板島はのちの宇和島だ。

高虎は朝鮮出兵のときは漆川梁海戦や南原城の戦いで功績を挙げ、帰国後に1万石を加増された。
秀吉が死ぬとさっさといえやっサンにすり寄り、関ヶ原では大谷吉継の部隊と死闘を演じた。

藤堂高虎というと「いやらしい内通者」というイメージを持つ人が多いが、高虎は戦場では自らが刀を取って戦った。
そのため、高虎には手足の指に欠損があり、高虎が死去した際に遺体を納棺しようとした家臣が指の欠損を見つけて



「殿は我等とともに刀を取って戦われた」



と泣き出した。
板島という地名を宇和島に改めたのは高虎で、関ヶ原の前後くらいのことと言われている。

関ヶ原のあと、高虎は同じ伊予国今治20万石に転封となった。
このとき、高虎の友人の加藤嘉明もまた伊予松山20万石を与えられた。

あるとき、高虎と嘉明は雑談をしていて、高虎が嘉明に



「良い家臣とは、どんな家臣だ?」



と質問したことがある。
嘉明は



「骨になっても、持ち場を離れない者が良い家臣だ」



と答えた。
責任感のことを言いたいのである。
加藤嘉明はもとはいえやっサンと同じ「三河者」。それを思うと、嘉明の回答もわかるというものだ。

高虎は生前



「人の善し悪しは友によって決まるものだ。身分の上下を問わず、良き人であれば及ばないながらも真似をし、悪い人の真似はかりそめにもしてはならない」



と言っている。
加藤嘉明のような良質な友人を得た高虎だからこそ言えた言葉であろう。
この言葉は現代にも通用する。

他人の良いところを取り入れる。いえやっサンが人質時代、今川家の軍師・太原崇孚(雪斎和尚)から



「学びは真似び」



と教わったこととも重なる。

いえやっサンと高虎の共通点は「苦労」。
いえやっサンが藤堂家を「外様なれど准譜代」として扱ったのは、高虎とは苦労人同士で気が合ったからかも知れない。



高虎が伊賀上野へ転封後、宇和島にはのちに伊達秀宗が10万石で入封し、明治まで続いた。