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【みんな生きている】デモ行進編[宮内和也さん]/FTB

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《インチキ遺骨ではなくて、拉致被害者を返せ!拉致問題の早期解決求めデモ行進》

北朝鮮による拉致の問題の早期解決に向けて福井市で12月13日、デモ行進と署名活動が行われました。
福井県内の特定失踪者家族会等11団体の約70人が参加。
家族会の代表で若狭町の特定失踪者・宮内和也さんの義理の兄の澤 香苗さんは

「家族との再会を果たすために国にもっと勇気を持って取り組んでほしい」

と訴えました。
集められた署名は、政府に提出されます。

■政府拉致問題HP
http://www.rachi.go.jp/
警察庁HP
http://www.npa.go.jp/
福井県警HP
http://www.pref.fukui.jp/kenkei/
救う会全国協議会HP
http://www.sukuukai.jp/
特定失踪者問題調査会HP
http://www.chosa-kai.jp/
北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会HP
http://hrnk.trycomp.net/
■特定失踪者・北朝鮮人権ネットワークfacebook
http://www.facebook.com/nknet2015



《特定失踪者・宮内和也さんについて》
◆氏名:宮内 和也
(みやうちかずや)
(Kazuya Miyauchi)
◆失踪年月日:平成9(1997)年4月24日
◆生年月日:昭和40(1965)年1月27日
◆性別:男
◆当時の年齢:32歳
◆当時の住所:福井県三方上中郡若狭町
◆当時の身分:公務員
◆身長:178cm
◆特徴:右利き
◆失踪場所:福井県三方郡三方町世久見の世久見漁港

【失踪状況】
失踪翌月に三方町世久見のB&G海洋センターでカヌーの研修(本人はインストラクター)が予定されており、ナホトカ号重油流出事故の影響で海岸が汚れていないか確認のため出かける。
当日、世久見岸壁で海を見ている宮内さんが目撃されているが、その夜帰宅せず。後に世久見漁港から数百メートル離れた海岸のテトラポッドにカヌーが折れて突き刺さっているのが発見され、さらにその近くで宮内さんの上着が発見された。上着は石が重しのように乗せられていた。
カヌーのパドル(櫂)とライフジャケットは艇庫に置いたままだった。

《特定失踪者・河合美智愛さんについて》
◆氏名:河合 美智愛
(かわいみちえ)
(Michie Kawai)
◆失踪年月日:昭和59(1984)年4月2日
◆生年月日:昭和38(1963)年12月18日
◆性別:女性
◆当時の年齢:20歳
◆当時の住所:福井県越前市
◆当時の身分:会社員
◆身長:169cm
◆特徴:
1)おでこが広い
2)口元に小さなホクロ
3)右膝外側に10cm程度のあざ
◆失踪場所:福井県武生市(現・越前市

【失踪状況】
失踪前日から地元の繊維会社に勤め始めていた。
昼食のために会社から一旦帰宅して昼食を取った後、会社に向かったが会社には着かずそのまま行方不明となった。
乗っていた自家用車(カローラ)も見つかっていない。
失踪後、1~2回、実家に無言電話がかかってきたが、名前を呼びかけると直ぐに切れた。
平成6年頃、宮城県内で目撃情報があります。
宮城県警HP
http://www.police.pref.miyagi.jp/

特定失踪者問題調査会が河合美智愛さんを北朝鮮による拉致濃厚とした理由】
これまでの調査及び本年10月9日に行われた1万キロ現地調査第28回での調査(ご家族からの聴取及び勤務先周辺の調査)などから拉致の可能性が濃厚であると判断するに至った。
1)河合美智愛さんの失踪は若い女性の失踪が全国で起きていた昭和60年(1985)前後の失踪である。
2)勤務先も決まり勤め始めていたときで、家族も喜んでいた状況のもと自分の意志で失踪し、以来31年間家族との関係を一切断絶する理由がない。
3)当時の状況から会社に向かう途中の事故とも考えられない。
4)車ごとの失踪は公開された特定失踪者の中でも昭和46年に宮崎から鹿児島に向かう途中で失踪した園田夫妻、昭和56年(1981)に石川で失踪した安達俊之さんなど何件もある。車輌ごと消し去るのはある程度大きな組織が必要と考えられる。
以上の状況の上、これまで拉致の可能性を考える上で疑問とされてきたのは、
(1)本人があまり外に出なかったことで、工作活動の網にかかる可能性が低かったのではないかという点
(2)自宅から会社までの距離が短く、また日中の失踪であること
(3)日本国内での目撃証言
などだった。
しかし、10月9日の現地調査でご家族と情報を確認した結果、
(1)については自動車学校、ドライブ、就職活動など様々な状況でそれまで人間関係のなかった何者かに接触される可能性があったことが確認された。
(2)については今後検証が必要だが、同時期の山本美保さんや秋田美輪さんも日中の失踪であることからして、面識のある人間に誘引されれば拉致されたと考えても矛盾はない。
(3)についてはこれまで情報の裏付けをとる努力をしてきたが、一旦除外すべきとの結論になった。
以上の理由から河合美智愛さんについては拉致の可能性が濃厚であるとの判断に至ったものである。

◆昭和53(1978)年6月頃
元飲食店店員拉致容疑事案
被害者:田中 実さん(Minoru Tanaka)
(拉致被害時28歳)
※This person was Abduction by North Korea
欧州に向け出国したあと失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日・朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日・朝実務者協議において我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において北朝鮮側より北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成17年4月に田中 実さんが拉致認定されて以降、政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。
兵庫県警HP
http://www.police.pref.hyogo.lg.jp/
救う会兵庫HP
http://www.sukuukai078.net/04.html

《特定失踪者・濱端俊和さんについて》
◆氏名:濱端 俊和
(はまばたとしかず)
(Toshikazu Hamabata)
◆失踪年月日:昭和58(1983)年4月10日
◆生年月日:昭和34(1959)年9月10日
◆性別:男
◆当時の年齢:23歳
◆当時の住所:福井県敦賀市
◆当時の身分:会社員(原子力発電所の定修工事)
沖縄県出身
◆身長:155cm
◆体重:50kg
◆特徴:左顎下にアザ
◆失踪場所:福井県敦賀市敦賀駅

【失踪状況】
沖縄県出身で地元の会社から横浜の建設会社に研修生として派遣されていた。
昭和58年3月末に大飯原発の定修工事が完了し、美浜原発の定修工事に転出するため、3月30日に横浜の本社に到着。
工事の機材を積み込んで4月2日に美浜に向け出発、3日着。
4日から美浜原発定修工事作業準備。
9日同じ沖縄出身の同僚と日帰りでアメ横まで洋服を買いに行く。
10日その同僚をパチンコに誘うが同僚が行かなかったので一人でタクシーを呼び、当時宿泊していた敦賀市内の寮を出たまま失踪(タクシーは敦賀駅前で降りたことが確認されている)。
ジャンパー姿で出掛けており、免許証、貯金通帳、保険証などの荷物すべて置いたまま。
広島に友人に預けた車があったがそれもそのまま。
10月23日Yという女性から沖縄の実家に電話があり、9月末にご主人が行方不明になった。行方が分からないかとの問い合わせがあった。
濱端さんとは神奈川県内にある自動車工場で知り合ったとのこと(濱端さんは昭和55年4月から10月までここに季節工として勤務)。
お母さんが電話を受け、息子も行方不明になっていると伝え、電話番号を聞いたが教えてもらえなかったという。
■神奈川県警HP
http://www.police.pref.kanagawa.jp/
福井県警HP
http://www.pref.fukui.jp/kenkei/
広島県警HP
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/police/



【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.