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【みんな生きている】安倍晋三編[モンゴル]/NNN

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《インチキ遺骨ではなくて、拉致被害者を返せ!拉致問題で協力要請も 日・蒙首脳会談》

安倍晋三首相が10月22日から7日間の日程でモンゴルや中央アジア諸国を訪問しています。
最初の訪問国・モンゴルでは安全保障等幅広い分野での協力を確認しました。


■安倍首相、モンゴル首相に拉致問題解決への協力要請

安倍首相とチメド・サイハンビレグ(Chimed Saikhanbileg)首相との会談では、政治や安全保障分野等で協力を進めていくことで一致しました。
さらに、モンゴルは北朝鮮と国交関係があることから、「拉致問題の早期解決に向け協力を期待したい」と要請しました。
会談後、両政府はモンゴルにおける日本企業の投資機会の拡大に向けた覚書を交わしました。
安倍首相は22日夜、すでにモンゴルを出発していて、日本時間23日未明、次の訪問国である中央アジアトルクメニスタンに到着する予定です。
日本の首相が中央アジアを訪問するのは9年ぶりのことです。

■政府拉致問題HP
http://www.rachi.go.jp/
警察庁HP
http://www.npa.go.jp/
■警視庁HP
http://www.keishicho.metro.tokyo.jp
救う会全国協議会HP
http://www.sukuukai.jp/
特定失踪者問題調査会HP
http://www.chosa-kai.jp/
■特定失踪者・北朝鮮人権ネットワークfacebook
http://www.facebook.com/nknet2015



《特定失踪者・古川了子さんについて》
◆氏名:古川 了子
(ふるかわのりこ)
(Noriko Furukawa)
◆失踪年月日:昭和48(1973)年7月7日
◆生年月日:昭和30(1955)年1月1日
◆性別:女性
◆当時の年齢:18歳
◆当時の住所:千葉県市原市菊間
◆当時の身分:三井造船社員
◆身長:157cmくらい
◆血液型:B型
◆特徴:
1)中学時代水泳部、高校では卓球部部長。
2)書き初めで入選したことあり、簿記、珠算和文タイプ等資格持っている。
3)左利き。文字を書くのは左右同じに使える。
4)左眉に途切れたような傷がある
◆失踪場所:千葉県

【失踪状況】
午前中に美容院へ行き、午後から母親と浴衣を買いに行く予定をしていた。
朝早く家を出て、美容院に「今日の美容院はキャンセルしたい。出かけるところができた。母親にも浴衣を買いに行けなくなったと伝えて下さい」と言った。
母親は美容院からの電話で、友達にでも会うことになったのだろうと気にしなかったが、それから何の音沙汰もなくなった。
7月に初めて貰ったボーナスは手付かず、預金通帳も置いたまま。
持って出たのは財布とハンカチくらいしか入らない、いつも持っている小さなバッグ1つだけだった。
その後、家にも勤め先にも全く連絡なし。中学や高校の友人も心あたりはなかった。
北朝鮮工作員安明進(アン・ミョンジン)氏が、「1991年に平壌市内の病院にいた女性と似ている」と証言している。
平成16年1月29日、千葉県警に告発状提出。
平成17年4月13日政府に対し拉致認定を求め東京地裁に提訴。
千葉県警HP
http://www.police.pref.chiba.jp/
救う会千葉HP
http://sukuukaichiba.web.fc2.com/
■古川了子さんを救う会HP
http://2.furukawanoriko.michikusa.jp/

《特定失踪者・加藤八重子さんについて》
◆氏名:加藤 八重子(石川 八重子)
(かとうやえこ/いしかわやえこ)
(Yaeko Katou/Yaeko Ishikawa)
◆失踪年月日:昭和53(1978)年9月22日
◆生年月日:昭和15(1940)年9月20日
◆性別:女性
◆当時の年齢:38歳
◆当時の住所:群馬県群馬郡群馬町(現・群馬県高崎市
◆当時の身分:電信電話局勤務(交換手)
◆身長:155cm
◆体重:55kg
◆特徴:盲腸の手術痕あり
◆失踪場所:群馬県群馬町の自宅から

【失踪状況】
当日早朝、八重子さんの長女が部屋を見たら姿がなかった。
夫は夜勤で不在。
前夜は二人の子供とともにテレビを見ていて、子供は午後十時過ぎに就寝している。
部屋は変わった様子がなく、本人のパジャマを除いて、現金、履物、衣類、鞄など何もなくなっていない。
高崎署は事件の可能性も含め捜査を行ったが、全く手がかりが掴めなかった。

【荒木和博・調査会代表による加藤八重子さん失踪事件の解説】
加藤八重子さんは昭和53(1978)年9月22日に群馬県群馬町の自宅から失踪しました。
当日朝、お嬢さんが八重子さんの部屋を見たら姿がなく、寝ていた掛け布団が真ん中だけ膨らみ、誰かに引っ張られて出されたという感じで残されていました。当時38歳。
ご主人はその晩夜勤で不在でした。
前夜は2人のお子さんとともにテレビを見ていて、お子さんたちは午後10時過ぎに就寝しています。
部屋は変わった様子がなく、本人のパジャマを除いて現金、履物、衣類、鞄など全て残っていました。
先日お嬢さんとお会いし、あらためて色々お聞きしたのですが、お話ししていてふと気付いたことがありました。
加藤さんのケースは大多数の特定失踪者と異なり、失踪直後から警察が事件性を察知して動いたケースだということです。
子供を別にすれば、大多数の特定失踪者の場合は家族が届出をしても「事件性なし」と判断され、警察はほとんど動くことはありません。警察には年間10万人近い失踪者の届けがあるので、ある程度仕方ないことではあります。
その意味で加藤さんの失踪事件は特異なケースなのですが、警察の視点は北朝鮮による拉致ではなく、一般の刑事事件としてでした。
警察が最初に疑ったのはご主人で、さらに親族も含めてかなり厳しく調べられたそうです。当時小学生だったお嬢さんですら取調室のようなところで事情聴取をされたとのことでした。
しかし、結局何も出てこず、その後は音沙汰なしになっています。
加藤さんの布団の状況からすれば自分から布団を出たとは考えられません。自分から出たなら布団を畳むかめくるかしているでしょうから。
しかも履物もなくなっていないのですから、考えられるのは意識を失った状態で他人に引っ張り出され、そのまま連れ去られたということです。
ところで加藤八重子さんは電電公社(現在のNTT)の職員でした。そしてご主人は国鉄(現在のJR)に勤めていました。どちらも労働組合は旧社会党系です。
また、ご主人は1か月前、職場の野球大会のとき家の鍵を盗まれていました。
失踪時に警察は事件性を考えてかなり綿密に調べているのですから、家族が犯人でないと分かった時点で、他に何がありうるかを考えたはずです。そのとき、北朝鮮とまでは思わなかったとしても、職場のことを考えなかったとは思えません。
群馬県は金丸・田辺訪朝団で有名な田辺 誠・元社会党委員長の地元でもあります。様々な意味で北朝鮮との関係も深く、後に原 敕晁さんを拉致して成り代わる北朝鮮工作員辛光洙シン・グァンス)が高崎や前橋のパチンコ屋に身を隠していたこともありました。
このところ色々な情報が出てくる中で、日本人協力者、特に社会党ないし社会党系労組にいた北朝鮮シンパの活動が注目されています。職場の野球で家の鍵が盗まれていること、ご主人の夜勤のときに奥さんが失踪していることからして、周囲にいる事情に詳しい人間が動いた可能性も少なくありません。
加藤さんの失踪は35年前の事件ではあっても、未解決の刑事事件として警察に何らかの記録は残っているはずです。また、当時盛んだった自民党社会党の裏取引の中でこのような問題が握り潰されたことはなかったのかとの懸念もあります。
これまでただ一人の拉致実行犯も起訴できていない警察としては、「一所懸命やっている」というだけではなく、ぜひ結果を出して真相を究明していただきたいと希望する次第です。

◆昭和53(1978)年6月頃
元飲食店店員拉致容疑事案
被害者:田中 実さん(Minoru Tanaka)
(拉致被害時28歳)
※This person was Abduction by North Korea
欧州に向け出国したあと失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日・朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日・朝実務者協議において我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において北朝鮮側より北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成17年4月に田中 実さんが拉致認定されて以降、政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。



【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.