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【みんな生きている】日比谷公会堂(1)-1/田口八重子さん

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飯塚繁雄田口八重子さんの兄、家族会代表)


■被害者の帰国だけが目的だ

みなさんこんにちは。
こういった集会が数えきれないほど催されてきましたが、なかなか結果が出ないまま今日になってしまいました。
今、司会から話がありましたように、2002年9月7日から丸13年経ちました。
その時、日・朝首脳会談に小泉さんが行ってくれましたが、初めて亡くなった金正日キム・ジョンイル)が拉致を認めて謝罪した場面がありました。しかし、その後は全く何の動きもなく、金正日の遺訓、「もう日本人はいない。家族はみんな死んでいる」というのが今現在生きているわけです。ですから、この遺訓をどうやって覆すか。これが重要な焦点だろうと思います。
金正恩キム・ジョンウン)はこれを受けて、今色々と戦略、戦術を考えていると思いますが、日本との交渉の中で、如何に自らに利益となるようにし、自らの非を出さない、認めさせないためにどうしたらいいか、ということになっていると思います。
そういう中でこの1年を見ますと、日・朝で政府間協議が始まりました。当初は我々としてもいい機会が来たということで期待していましたが、結果は全く出ていません。安倍総理を中心とした政府の考えがあっての今の対策だと思いますが、我々が目的にしているのは、今向こうで苦しんで待っている人、あるいはそれを日本で待っている家族に対して、あくまでも被害者の帰国に尽きるんです。
どんな手段、どんな戦略があったとしても、我々としては被害者の帰国だけが目的です。あまりにも長いので、向こうで待っている被害者の方たちも精神的に相当まいっていると思います。日本の家族も精神的、肉体的に限界を超えて、段々亡くなられる方もいます。
そういう意味では、早くこの問題を解決して家族同士が抱き合う日が一刻も早く来てほしいというのが家族全員の重いであり、また国民の皆様も早く解決させろという気持ちの方が多分大勢いらっしゃるのではないかと思います。
今、北朝鮮政府の動き、日本政府の動きが相当注目されていますが、施策、分析、対応措置が本当に帰国に結びつくのかということが、かなり強く表れてきています。従って私たちは色々な活動をしています、政府としてこうしていますという話はよく聞きますが、ではいつまでに解決するんですかというのが大きなクエスチョンマークです。
それについては、日本国政府として「いつまでに必ずこの問題を解決させます」という強い意思と、それに伴う措置が不可欠です。期限のない目的、目標は世の中にないんです。しかし拉致問題だけはなかなか期限が切れない。期限が切れないということは解決できないということと同じですよね。
私たちは今も待ち焦がれていて、精神的にまいっているこの時期、そして今年は色々な動きがあり、それに伴う活動、集会、署名活動をしています。これは国民の皆様とともに戦っていくという手段です。それが今、かなり強くなってきています。
当然ながらこの日本の国民の動きについては北朝鮮が察しています。だから絶対に諦めてはいないということを強いメッセージとして出していきたいと考えています。近々問題は解決するだろうという私たちの期待、そして被害者の写真に向かって、「もうちょっと頑張って」と。「今国民も、政府も議会も頑張っている。もうちょっとだから我慢してくれ」という言葉が伝えられたらいいなあと思います。
お蔭様で署名も、1,134万筆が集まっています。これは相当強いカードになるはずです。日本国民の怒りの声が集結しているわけです。
今、本当に大事な時期です。この時期を何とかみなさんの力で、また当然ながら政府・議会・自治体が一致団結して、この問題を解決すべく集中していただきたいと思います。
今日は総理をお招きしてお話が聞けると思いますが、具体的な話が伺えればいいなと思いますが、私たちはとにかくあきらめ切れないという気持ちが礎になってまた頑張るしかありません。
皆さんと一緒に頑張っていきたいと思います。
今後とも宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。

■政府拉致問題HP
http://www.rachi.go.jp/
警察庁HP
http://www.npa.go.jp/
救う会全国協議会HP
http://www.sukuukai.jp/
特定失踪者問題調査会HP
http://www.chosa-kai.jp/



◆昭和53(1978)年6月頃
李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案
被害者:田口八重子さん(拉致被害時22歳)
昭和62年11月の大韓航空機(KAL)爆破事件で有罪判決を受けた元北朝鮮諜報員金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏は「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の振る舞い方を学んだと主張している。この李恩恵は行方不明となった田口さんと同一人物と考えられる。
北朝鮮側は、田口さんは1984(昭和59)年に原 敕晁さんと結婚し、1986(昭和61)年の原さんの病死後すぐに自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
平成21年3月、金賢姫氏と飯塚家との面会において、金氏より田口さんの安否にかかる重要な参考情報(注)が新たに得られたことから、現在、同情報についての確認作業を進めている。
(注)金氏の発言:「87年1月にマカオから帰ってきて、2月か3月頃、運転手から田口さんがどこか知らないところに連れて行かれたと聞いた。86年に一人暮らしの被害者を結婚させたと聞いたので、田口さんもどこかに行って結婚したのだと思った」

※「八重子さんが北朝鮮南浦港に着いたとき、女性通訳に“私には子供が二人いて、どうしても日本に帰らなくてはならないので、返してほしい”と何回も言ってお願いしたそうです。八重ちゃんの思いは最初から最後まで子供のことでいっぱいでしたし、今でも間違い無く“今、彩ちゃんはいくつになって、耕ちゃんはいくつになった”と毎年計算して、どんな大人になったか知りたがっているはずです。すごく会いたがっていると思います」
拉致被害者・地村富貴恵さんの証言)
■埼玉県警HP
http://www.police.pref.saitama.lg.jp/
救う会埼玉HP
http://sukuukai.gozaru.jp/
拉致問題を考える川口の会HP
http://kawaguchi.aikotoba.jp/list.htm

◆昭和55(1980)年6月中旬
辛光洙シン・グァンス)事件
被害者:原 敕晁さん(拉致被害時43歳)
宮崎県内で発生。
本件については、北朝鮮工作員辛光洙シン・グァンス)が韓国当局に対し、原さん拉致を認める証言をしている。
捜査当局は辛光洙について、これまで原さんに成りかわった容疑で逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求してきたが、平成18年4月には、新たに拉致容疑の主犯として逮捕状が発付されている。
北朝鮮側は身柄の引渡しに応じていないどころか、同人を「英雄」として称えている。
また、捜査当局は原さん拉致容疑の共犯者である金吉旭(キム・キルウク)についても逮捕状の発付を得ており、国際手配を行うなどの所要の措置を講じている。
北朝鮮側は、原さんは1984(昭和59)年に田口八重子さんと結婚し、1986(昭和61)年に肝硬変で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

※「辛光洙は原 敕晁さんになりすますために、原さんについてのあらゆることを調べあげた。それこそ、チャーハンの作り方まで調べあげた」
(石高健次さん)
大阪府警HP
http://www.police.pref.osaka.jp/
宮崎県警HP
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/police/



【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.