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【みんな生きている】日比谷公会堂(1)-2/田口八重子さん

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飯塚耕一郎(田口八重子さんの長男)


■家族のつながりを再開させたくて家族会に入った

皆さんこんにちは。
田口八重子の長男、飯塚耕一郎です。
毎年のことながら、皆様このように大勢の方に集まっていただき、本当にありがとうございます。今年こそはいい報告ができるかと思っていましたが、なかなかそこに至らず、残念な気持ちです。
曽我さんのご発言を聞いていました。一つひとつはっきりおっしゃっていて、お母様への思いをつづられていました。家族会の中で、母を救出しようと動いているのは、私と曽我ひとみさんだけになります。
正直言って、私は曽我さんの発言をうらやましいな、悔しいなという気持ちで聞いていました。私には、母親との思い出を振り返るべき思い出が何もありませんし、記憶がなにもありません。家族会に入った当初も思っていましたが、母親・田口八重子さんを救う気持ちをどう伝えればいいのだろうかとずっと煩悶していた記憶があります。
ですが、そこを始めるために私は母親を探し出し、救出して、そして彼女と37年ぶりに家族という社会のありふれた形をスタートさせたい。その自分自身に対する気持ちと、八重子さんの兄弟、今日壇上にいる飯塚繁雄に会わせてあげたい。また私の実の姉や姉の子どもに会わせてあげたい。つながりを再開させたいという気持ちで家族会に入った気持ちを、今すごく思い返しました。
自分勝手なことばかり言って甚だ恐縮ですが、私及び家族、北朝鮮に拉致されて今もつらい思いをしている我々の家族を救うために協力していただければと考えています。

《耕一郎さんが言いたいこと》
本日私から皆様に申し上げたいことが3点あります。

[1.心は焦ったとしても、行動は焦るな]
1点目、心は焦ったとしても、行動は焦らないでいただきたいと考えています。
本来、ストックホルム合意に基づいて今年の夏くらいまでに調査結果を出すという形になっていました。報告は何も出てきていません。この状況によって、一部の方が、「一括帰国は無理なんじゃないか。報告書を受け取って検証すればいいんじゃないか」とおっしゃいますが、私は基本的に間違っていると思います。
今回の拉致被害者に関する報告というのは、金正恩キム・ジョンウン)の初回の報告になります。
初回の報告で被害者が「死亡」の烙印を押された場合、これを金正恩が生きている間に覆すのはほぼ無理だと思います。
北朝鮮の国家最高権力者が言ったことをくつがえすのは無理になります。彼が死ぬまで、我々の家族は「死亡」という形をくずされないことになりますので、焦って「報告書を受け取れ」とは言わないでいただきたいと思います。
[2.求めているのは被害者の帰国で、報告書なんか要らない]
2点目、もう代表も常々言っていますが、我々が求めているのは被害者の帰国です。報告書なんかいらないんだ、ということです。我々の愛する家族を一刻も早く返せということを、北朝鮮に是非伝えるべきだと思います。
そしてこの気持ちは会場の方々のみならず、交渉に当たる外務省の方々、我々をサポートしてくださる内閣府の対策室の方々が同じ気概を持ってぶつかっていただきたいと思います。
[3.本気でない交渉を続けることに何の意味があるんだ]
3点目、今日の決議案とも関係しますが、ストックホルム合意から1年2か月、この間誰が帰ってきたんですか。帰ってきていないわけです。鳴り物入りで始まった交渉で一人も帰ってこないのだったら、北朝鮮拉致問題の解決に本気ではないということの証だと思います。
この本気でない交渉を続けることに何の意味があるんでしょうか。状況によっては、このストックホルム合意を破棄するくらいの気持ちで交渉にあたらないと、被害者は帰ってこないと思います。日本の本気を、今のタイミングで、是非見せるべきだと思います。そのため是非ご協力をお願いします。
ありがとうございました。

【西岡 力(補足)】
■本当に許せない人格の冒涜

北朝鮮田口八重子さんのことをどう言っているのか?
宮崎の海岸で工作員と偶然会って、「数日間なら旅行したいわ」と言ってゴムボートに乗って北朝鮮に行った、と。
そんなことはなかったんです。田口さんは連れていかれてすぐ、「自分には子どもがいるんだ。返してくれ」と訴えたそうです。そして金賢姫(キム・ヒョンヒ)といる時も、いつも耕一郎さんのことを思い出して泣いていた、と。
しかし、その耕一郎さんに八重子さんの思い出がまだない。それなのに、親が自分の意思で行ったという嘘をついている。これは本当に許せない人格の冒涜だと思います。
許してはならないと思います。

■政府拉致問題HP
http://www.rachi.go.jp/
警察庁HP
http://www.npa.go.jp/
救う会全国協議会HP
http://www.sukuukai.jp/
特定失踪者問題調査会HP
http://www.chosa-kai.jp/



◆昭和53(1978)年6月頃
李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案
被害者:田口八重子さん(拉致被害時22歳)
昭和62年11月の大韓航空機(KAL)爆破事件で有罪判決を受けた元北朝鮮諜報員金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏は「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の振る舞い方を学んだと主張している。この李恩恵は行方不明となった田口さんと同一人物と考えられる。
北朝鮮側は、田口さんは1984(昭和59)年に原 敕晁さんと結婚し、1986(昭和61)年の原さんの病死後すぐに自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
平成21年3月、金賢姫氏と飯塚家との面会において、金氏より田口さんの安否にかかる重要な参考情報(注)が新たに得られたことから、現在、同情報についての確認作業を進めている。
(注)金氏の発言:「87年1月にマカオから帰ってきて、2月か3月頃、運転手から田口さんがどこか知らないところに連れて行かれたと聞いた。86年に一人暮らしの被害者を結婚させたと聞いたので、田口さんもどこかに行って結婚したのだと思った」

※「八重子さんが北朝鮮南浦港に着いたとき、女性通訳に“私には子供が二人いて、どうしても日本に帰らなくてはならないので、返してほしい”と何回も言ってお願いしたそうです。八重ちゃんの思いは最初から最後まで子供のことでいっぱいでしたし、今でも間違い無く“今、彩ちゃんはいくつになって、耕ちゃんはいくつになった”と毎年計算して、どんな大人になったか知りたがっているはずです。すごく会いたがっていると思います」
拉致被害者・地村富貴恵さんの証言)
■埼玉県警HP
http://www.police.pref.saitama.lg.jp/
救う会埼玉HP
http://sukuukai.gozaru.jp/
拉致問題を考える川口の会HP
http://kawaguchi.aikotoba.jp/list.htm

◆昭和55(1980)年6月中旬
辛光洙シン・グァンス)事件
被害者:原 敕晁さん(拉致被害時43歳)
宮崎県内で発生。
本件については、北朝鮮工作員辛光洙シン・グァンス)が韓国当局に対し、原さん拉致を認める証言をしている。
捜査当局は辛光洙について、これまで原さんに成りかわった容疑で逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求してきたが、平成18年4月には、新たに拉致容疑の主犯として逮捕状が発付されている。
北朝鮮側は身柄の引渡しに応じていないどころか、同人を「英雄」として称えている。
また、捜査当局は原さん拉致容疑の共犯者である金吉旭(キム・キルウク)についても逮捕状の発付を得ており、国際手配を行うなどの所要の措置を講じている。
北朝鮮側は、原さんは1984(昭和59)年に田口八重子さんと結婚し、1986(昭和61)年に肝硬変で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

※「辛光洙は原 敕晁さんになりすますために、原さんについてのあらゆることを調べあげた。それこそ、チャーハンの作り方まで調べあげた」
(石高健次さん)
大阪府警HP
http://www.police.pref.osaka.jp/
宮崎県警HP
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/police/


【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.