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【みんな生きている】首相・家族会面会編/JNN

《拉致は人権侵害の総本山!安倍首相、家族会と面会》

【4月3日金曜日】
北朝鮮による拉致被害者家族がおよそ1年ぶりに安倍晋三総理大臣と面会しました。一方、北朝鮮が2日、「日本の政治的挑発が度を越している」等として「日朝協議はできない」と伝えてきたことに対し、政府は「全く受け入れられない」として北朝鮮側に抗議しました。

「昨日、北朝鮮から抗議がございました。我が国としては全く受け入れることはできません」
安倍晋三総理大臣)

3日午後、拉致被害者の家族会が、およそ1年ぶりに官邸で安倍総理と面会しました。

北朝鮮にいる多くの被害者、そして、私たち含めたそれを待っている家族、精神的にも肉体的にもすでに限界状態になっております」
拉致被害者家族会・飯塚繁雄代表。拉致被害者田口八重子さんの兄)

2日、北朝鮮朝鮮中央通信は、「『日本の政治的挑発が度を越しており、日本と北朝鮮の政府間協議議を行うことができない』とする通知文を外交ルートを通じ日本側に送った」と報じました。その中で、北朝鮮側は、拉致等の包括的調査を約束したストックホルム合意をめぐり、「日本が拉致問題を双方で解決するとの合意を破り、国連の舞台で問題にしたことで、自ら信頼できなくさせた」と非難。これは、3月27日に国連人権理事会での人権侵害非難決議の採択に反発したものとみられます。
さらに…
「朝・日関係が非常に微妙な段階である時期にこういう暴挙を行うということは、今後、朝・日関係が悪化することは全的に日本政府当局の責任」
朝鮮総連許宗萬議長。3月26日)

先月26日、朝鮮総連許宗萬(ホ・ジョンマン)議長の自宅が捜査されたことについては、「前代未聞の国家主権侵害行為だ」として日本政府に謝罪を要求。
そして、先月31日、政府は北朝鮮との輸出入を禁じる等の独自制裁を2年継続すると発表。
北朝鮮情勢に詳しい平井久志教授は、「今回の北朝鮮の反応は日本政府の一連の圧力への反応だ」と解説します。

北朝鮮にとってみれば、日本側から圧迫カードが3つ連続で出たので、『(日朝交渉を)再開できる状況でない』 という、ある意味では時間稼ぎの戦術に出てきたと思います。本来ですら難しい日・朝間の煮詰まっている、協議そのものを遅延する口実を与えたのかな」
立命館大学・平井久志客員教授

政府は北朝鮮に対し、一歩も譲る姿勢を見せません。

「今回の北朝鮮の発表は全く受け入れることができず、極めて遺憾である」
(菅 義偉官房長官
「政府としましては、北朝鮮側が日朝合意に従って迅速かつ正直に報告を出してくることを強く求め続けます」
山谷えり子拉致問題担当大臣

一方で、拉致被害者家族は、「生きて被害者が帰ってくれば、そもそも報告書は必要ない」と、あくまで望んでいるのは拉致被害者の帰国だと強調します。

「『報告書の提出はいらない』と。被害者の帰国が絶対的だと」
飯塚繁雄代表)
「交渉の余地がまだまだあるし、これから日本政府の交渉の力がどこまであって、それを国民全部が見つめなきゃならない」
横田早紀江さん。拉致被害者横田めぐみさんの母)

これまで何度となく交渉を引き延ばしてきた北朝鮮。日本政府は3日午前、北朝鮮側に抗議。今後、予定通り調査結果を速やかに日本側に伝えるよう求めていく方針です。

◆昭和58(1983)年7月頃
欧州における日本人女性拉致容疑事案
被害者:有本恵子さん(拉致被害時23歳)
欧州にて失踪。
よど号」犯人の元妻は、北朝鮮当局と協力して有本さんを拉致したことを認めている。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の魚本(旧姓安部)公博について、平成14年9月逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引き渡しを要求しているが北朝鮮側はこれに応じていない。
北朝鮮側は、有本さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で石岡 亨さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

◆昭和55(1980)年5月頃
欧州における日本人男性拉致容疑事案
被害者:松木 薫さん(拉致被害時26歳)
被害者:石岡 亨さん(拉致被害時22歳)
2人とも欧州滞在中の昭和55年に失踪。
昭和63年に石岡さんから日本の家族に出した手紙(ポーランドの消印)が届き、石岡さん、松木さん、そして有本恵子さんが北朝鮮に在住すると伝えてきた。
北朝鮮側は、石岡 亨さんは1988(昭和63)年11月にガス事故で有本恵子さんと共に死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
また、同様に松木 薫さんについても、1996(平成8)年8月に交通事故で死亡したとして、平成14年9月及び平成16年11月に開催された第3回日朝実務者協議と2回にわたり、北朝鮮側から松木さんの「遺骨」の可能性があるとされるものが提出されたが、そのうちの一部からは、同人のものとは異なるDNAが検出されたとの鑑定結果を得た。
捜査当局は拉致実行犯である「よど号」犯人の妻・森 順子及び若林(旧姓:黒田)佐喜子について、平成19年6月に逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求している。

◆昭和53(1978)年6月頃
元飲食店店員拉致容疑事案
被害者:田中 実さん(拉致被害時28歳)
欧州に向け出国したあと失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日・朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日・朝実務者協議において我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において北朝鮮側より北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成17年4月に田中 実さんが拉致認定されて以降、政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。

《特定失踪者・金田竜光さんについて》
◆氏名:金田 竜光
(かねだたつみつ)
◆失踪年月日:昭和54(1979)年ごろ
◆生年月日:昭和27(1952)年
◆性別:男
◆当時の年齢:26歳
◆身長:180cm
◆当時の身分:ラーメン店店員
◆当時の住所:兵庫県神戸市東灘区青木
◆失踪場所:神戸市東灘区

【失踪状況】
金田さんは韓国籍
田中 実さん(昭和53年に拉致)と同じ施設で育った。
昭和52年ごろ、田中 実さん拉致実行犯・韓竜大(ハン・ヨンデ)が経営するラーメン店「来大」に就職。昭和53年に田中 実さんを「来大」に紹介し、ともに働く。同年、韓竜大の誘いにより、田中 実さんがオーストリア・ウィーンに出国。
半年ほどして、田中 実さんが差出人になっているオーストリアからの国際郵便を受け取る。その内容は「オーストリアはいいところであり、仕事もあるのでこちらに来ないか」との誘いであった。
田中さんの誘いを受け、打ちあわせと言って東京に向かったが、以後一切連絡がなく、行方不明となる。
連絡がないことを不思議に思った友人が、この間の事情を知る韓竜大に再三説明を求めたが、「知らない」と繰り返す。
その後失踪した2人を知る友人たちの間で「2人は北朝鮮にいる」との噂が広まり、韓竜大に近づく者がいなかった。
救う会兵庫」は平成14年10月に韓竜大、15年7月にその共犯である曹廷楽(チョ・ジョンガリ)についての告発状を兵庫県警に提出している。

《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。

救う会認定拉致被害者・福留貴美子さんについて》
◆氏名:福留 貴美子
(ふくとめきみこ)
◆失踪年月日:1976(昭和51)年7月18日または19日
◆生年月日:1952(昭和27)年1月1日
◆当時の身分:アルバイト
◆当時の住所:東京都渋谷区恵比寿
◆最終失踪関連地点:海外

【失踪状況】
1976(昭和51)年7月中旬、同居していた友人に「モンゴルに行く」と言い残して出国後、行方不明となる。
1980(昭和55)年3月、突然同居していた渋谷区恵比寿の友人宅に現れた後、横浜市の友人宅に2泊した後、「大阪に行く」と言い残して再び行方不明となるが、後に北朝鮮に渡ったよど号犯の岡本 武と結婚し2児をもうけていたことが明らかになる。
1996(平成8)年夏によど号犯グループの小西隆裕から実家に「1988(昭和63)年夏に土砂崩れで死亡したと北朝鮮側から知らせを受けた」旨の手紙が送られてきたが、真相は不明のままである。



【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.