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【みんな生きている】バラク・オバマ編/JNN

オバマ大統領「北朝鮮はやがて崩壊する」》

【1月24日土曜日】
オバマ大統領が北朝鮮を酷評です。

「(北朝鮮の統治体制は)残忍で抑圧的で、国民を食べさせることもできない。そのような体制はやがて崩壊する」
バラク・オバマ大統領)

アメリカのバラク・オバマ(Barack Hussein Obama II)大統領は、インターネット上の動画投稿サイト『ユーチューブ』を利用したインタビューに答え、北朝鮮の統治体制について、

「他の国には真似ができない独裁体制」

と酷評し、

「そのような体制はいずれ崩壊する」

と述べました。
また、オバマ大統領は、北朝鮮

「地球上で最も孤立し、隔離されている」

とも話し、

「今後も圧力をかけ続ける」

として、制裁を続けていく考えを示しました。



《参考・北朝鮮の食糧難》

【食糧難の北朝鮮では幼児発育の通説が通じない(2009年)】

人類学では晩春から初夏にかけて生まれた子供が、晩秋から初冬にかけて生まれた子供より背が高いというのが通説だ。世界各国の研究者たちが出生時期による背の違いを調査した結果、人種や地域、北半球・南半球に関わらず共通して見られる現象だという。まだ正確な理由はわかっていないが、人類学会では日照量が発育にある程度影響を与えていると推定している。
ところが1990年代初めに北朝鮮で生まれた子供を対象にした調査ではこれと正反対の結果が出た。ソウル大学人類学科の朴淳英(パク・スンヨン)教授チームは7月4日、国際学術誌『人類生物学クロニクル』に発表した論文で

「1996年~1997年、北朝鮮の6歳未満の子供約2千人を調査した結果、秋に生まれた子供が春に生まれた子供より背が高いことがわかった」

と主張した。研究チームは世界保健機関(WHO)等国際機関の調査結果を分析し、このような結論を得た。
朴教授は

「人類学の通説が北朝鮮で正反対になったのは、当時深刻だった食糧難のためと分析される」

と説明した。食糧難は同じ年でも秋より春がより深刻で、秋には収穫があり、いくらか状況がましなためだ。
朴教授は

「当時、北朝鮮で秋に生まれた子供の栄養摂取が春に生まれた子供より相対的に良かったと見られる。結局、食糧難が自然の幼児発育の特徴すら変えてしまった」

と話した。
また、朴教授は

「同じ時期の韓国や、日本による植民地時代の南北の子供を調査した結果でも、全て春に生まれた子供が秋に生まれた子供より背が高かった。これを通じて1990年代の北朝鮮の食糧難がどれだけ深刻だったか推察出来る」

と指摘した。

※これまで、国際社会による対北朝鮮食糧支援が北朝鮮住民に行き届いたことは無い。
「隣の家族がカネを借りて白いごはんと肉のスープを腹一杯食べたあと、スンニュン(おこげ料理)に農薬を混ぜて飲んで自殺した。草を食べなければならないほど食糧が無いとき、体が弱い子供にまず食べさせようとする母親の気持ちがわかるか」
脱北者の証言)



◆昭和53(1978)年6月頃
元飲食店店員拉致容疑事案
被害者:田中 実さん(拉致被害時28歳)
欧州に向け出国したあと失踪。
平成14年10月にクアラルンプールで行われた日・朝国交正常化交渉第12回本会談及び平成16年に計3回行われた日・朝実務者協議において我が方から北朝鮮側に情報提供を求めたが、第3回協議において北朝鮮側より北朝鮮に入境したことは確認できなかった旨回答があった。
平成17年4月に田中 実さんが拉致認定されて以降、政府は北朝鮮側に対し即時帰国及び事案に関する真相究明を求めてきているが、これまでに回答はない。

《特定失踪者・金田竜光さんについて》
◆氏名:金田 竜光
(かねだたつみつ)
◆失踪年月日:昭和54(1979)年ごろ
◆生年月日:昭和27(1952)年
◆性別:男
◆当時の年齢:26歳
◆身長:180cm
◆当時の身分:ラーメン店店員
◆当時の住所:兵庫県神戸市東灘区青木
◆失踪場所:神戸市東灘区

【失踪状況】
金田さんは韓国籍
田中 実さん(昭和53年に拉致)と同じ施設で育った。
昭和52年ごろ、田中 実さん拉致実行犯・韓竜大(ハン・ヨンデ)が経営するラーメン店「来大」に就職。昭和53年に田中 実さんを「来大」に紹介し、ともに働く。同年、韓竜大の誘いにより、田中 実さんがオーストリア・ウィーンに出国。
半年ほどして、田中 実さんが差出人になっているオーストリアからの国際郵便を受け取る。その内容は「オーストリアはいいところであり、仕事もあるのでこちらに来ないか」との誘いであった。
田中さんの誘いを受け、打ちあわせと言って東京に向かったが、以後一切連絡がなく、行方不明となる。
連絡がないことを不思議に思った友人が、この間の事情を知る韓竜大に再三説明を求めたが、「知らない」と繰り返す。
その後失踪した2人を知る友人たちの間で「2人は北朝鮮にいる」との噂が広まり、韓竜大に近づく者がいなかった。
救う会兵庫」は平成14年10月に韓竜大、15年7月にその共犯である曹廷楽(チョ・ジョンガリ)についての告発状を兵庫県警に提出している。

《特定失踪者・藤田 進さんについて》
※国連人権理事会が調査要請を受理した事案
◆氏名:藤田 進
(ふじたすすむ)
◆失踪年月日:昭和51(1976)年2月7日
◆生年月日:昭和31(1956)年6月16日
◆性別:男
◆当時の年齢:19歳
◆当時の身分:東京学芸大学教育学部1年生
◆当時の住所:埼玉県川口市南町
◆特徴:
1)家ではあまりしゃべらないタイプ
2)ギターがうまかった
◆失踪場所:埼玉県川口市の自宅

【失踪状況】
失踪当日6:30~7:00頃、以前から言っていた新宿のガードマンのバイトに行くといって服を持って家を出たまま帰らず。
後に新宿にある全ての警備会社に電話で問い合わせたが該当者はいなかった。
脱北者北朝鮮から持ち出した写真が鑑定の結果、藤田 進さんである可能性が極めて高いことが判明。
平成16年1月28日、埼玉県警に告発状提出。

《特定失踪者・小谷幸夫さんについて》
◆氏名:小谷 幸夫
(こたにゆきお)
◆失踪年月日:昭和43(1968)年7月21日
◆生年月日:昭和22(1947)年2月13日
◆性別:男
◆当時の年齢:21歳
◆身長:170cmより高め
◆体重:55kg~56kg
◆当時の身分:大学4年生
◆失踪場所:山形県飯豊連峰・飯豊本山付近

【失踪状況】
拓殖大学4年生在学中の夏休み、北海道へ帰省する途中に、飯豊連峰に登山中行方不明に。
19日に上野駅を出発し、翌日郡山を経て8:30に磐越西線山都駅に到着。
バスで登山口の一ノ木登山連絡所に行き、9:30頃に登山者名簿に記録を残す。
そこから飯豊山(2,205m)へ向かい、同日は手前の小屋に止まる。
21日朝3:30に同宿した4名とともに飯豊山を目指し、4:40頃に飯豊山着。
ここからガスがかかりだしたことから、同行の4人は引き返したが、小西さん一人御西岳に向かい、そのまま行方不明。
地元警察などが捜索を行ったが遺留品など一切なし。
その後2年にわたって捜索が続けられたが全く手掛かりがなかった。
同泊した登山者の話では、小谷さんは「北股岳を通る」「朝日連峰にも登りたい」と話していたという。
※小谷幸夫さんに関する情報を御存じの方は、どんな小さなことでも結構ですから、山形県警察本部警備部警備第一課に情報をお寄せ下さい。

《特定失踪者・布施範行さんについて》
◆氏名:布施 範行
(ふせのりゆき)
◆失踪年月日:昭和52(1977)年3月
◆生年月日:昭和29(1954)年2月9日
◆性別:男
◆当時の年齢:23歳
◆身長:180cm
◆当時の身分:アルバイト(プレハブ工事現場)
◆当時の住所:愛知県名古屋市
◆特徴:やせ型
◆失踪場所:不詳

【失踪状況】
3月に「沖縄に行く」と書いた手紙が妹にあり、4枚写真が同封。
3カ月前に実家で会ったときとは別人の様相。
「2カ月で帰る」とあったがその後連絡なし。
預金通帳、印鑑も一緒に妹に送付。
昭和53年2月までは実家に電話、手紙あり。同年1月頃、家族に電話で中華風の料理をしてみたいと言っていた。
失踪後、半年か1年後、女性の声で「範行さんいませんか」と電話が2回あった。
平成17年1月31日、山形県警に告発状提出。
※布施範行さんに関する情報を御存じの方は、どんな小さなことでも結構ですから、山形県警察本部警備部警備第一課に情報をお寄せ下さい。

山形県警公開特定失踪者・大宮のぶ子さんについて》
◆氏名:大宮 のぶ子
(おおみやのぶこ)
◆当時の年齢:36歳
◆当時の職業:新聞配達員
◆当時の住所:京都府京都市
◆:身長166cmくらい

【失踪状況】
平成3年5月上旬、当時住んでいた京都市内のアパートから姿を消して、以来行方不明になっています。
※大宮のぶ子さんに関する情報を御存じの方は、どんな小さなことでも結構ですから、山形県警察本部警備部警備第一課に情報をお寄せ下さい。



【SEA OF MERCY】
The book named “Sea of Mercy”
13-year- old junior high school student Takeshi Terakoshi was abducted in May 1963.
He went fishing with his two uncle, Shoji and Soto-o Terakoshi. The fishingboat named Kiyomaru left for the fishing ground nearby Noto island, Ishikawa prefecture.
Kiyomaru encountered North Korean spy vessel. Spies were afraid of detection.
Soto-o and Takeshi were abducted and carried to Chong-jin city. Shoji was considered to be killed at the site.
Families, fellow fishermen and coast guard searched the area, but they could find only Kiyomaru and Takeshi’s school uniform.
They thought 3 persons were in disress and died. Funeral service was held.24 Years were passed.
In 1987, Soto-o’s sister received the letter from Soto-o and surprised.
Soto-o wrote “Takeshi and I am living in Gusong, North Korea”.
Takeshi’s father and mother visited to North Korea in1988 and met with Soto-o and Takeshi.
But they couldn’t say how they carried to North Korea because NK officials watched them.
North Korea made the story of their shipwreck accident and lifesaving.
Since then, Takeshi’s parents visited to him a lot of times but Takeshi and his family members cannot say that Takeshi and his uncles were abducted.
In 1997, Megumi Yokota case was appeared in the media and the national congress. Terakoshi’s case was also observed as an abduction case. But “he” denied that he was abducted and praised North Korea and the Kim family.
In December 2001, Pyongyang publishing company published a book named “Sea of Mercy”.
The author is Kim Myong-ho, Takeshi’s Korean name.
In that book, Takeshi wrote that they are not the abduction victims but happily living in North Korea after they ware saved. Moreover “he" denied other abduction case such as Megumi Yokota and Yaeko Taguchi in this book.
Nine months later, Kim Jong-il admitted and appologized for the abduction activities.
But North Korea still denies Terakoshi’s case as abduction and Takeshi and his family cannot say he was abduction victim because Takeshi himself is a hostage.
“Sea of Mercy”, the title is a symbol of North Korean regime.