もずの独り言・はてなスポーツ+物置

半蔵ともず、はてなでも独り言です。

【みんな生きている】日比谷公会堂(1)-2田口八重子さん

飯塚耕一郎(田口八重子さんの長男。家族会事務局次長)


■交渉の過程で一切物を出す必要はない

みなさんこんにちは。
本日は皆さんにお伝えしたいことが3点あります。
まず、これは直接的ではないんですが、皆さんのように以前から拉致問題を重視していただいている以外の方が時々おっしゃるのが、「今回の再調査の報告が始まれば被害者がすぐに帰ってくるんでしょう」というふうに理解しておられる方が、結構います。
 そんなことないということを皆さんはご認識と思いますが、そんなことはないわけです。この局面はものすごくシビアで、ものすごい嘘つきに対して言い放っていかなければならない協議なんだと、周りのそういう方にもお伝えいただければと思っています。
また、7月の下旬に、「8月の下旬から9月の第1週、第2週にかけて報告が行われる」という報道がありました。しかし、いつなのかについて日本政府の正式な発表はまだありません。
他方、宋日昊ソン・イルホ)が、「報告に向けて協議の準備はできている」と言ったとの報道があり、家族も含め皆さんもそうだと思いますが、一日千秋の思いで被害者が帰ってくることを願う気持ちからすれば焦る気持ちがどうしても先に出てしまいますが、しかし、今、焦るよりは確実な回答、誠実な回答を求めることが一番重要かと思います。中途半端な回答なんかいらないということを、是非とも皆さんの心の中、そして家族の心の中でも持つべきだと思います。
中途半端な回答ではまた悲惨なことになり、また2002年から12年ですが、また長い月日が経つというような状況は絶対に避けなければいけないと思いますので、改めてその点に関してはご理解をいただきたいと思います。
最後に、今日皆さんが宋日昊発言に関する感想が出ましたが、全く私も同じです。制裁の追加解除を求める発言がありましたが、家族の命を救うために一切の譲歩や妥協はいらないんです。彼らに物を出す時は、全ての被害者が帰ってきてからです。交渉の過程で一切物を出す必要はないんです。そのことを是非とも向こうに突きつけてやりましょう。この点でご理解をいただければと考えています。
以上です。



◆昭和53(1978)年6月頃
李恩恵(リ・ウネ)拉致容疑事案
被害者:田口八重子さん(拉致被害時22歳)
昭和62年11月の大韓航空機(KAL)爆破事件で有罪判決を受けた元北朝鮮諜報員金賢姫(キム・ヒョンヒ)氏は「李恩恵(リ・ウネ)」という女性から日本人の振る舞い方を学んだと主張している。この李恩恵は行方不明となった田口さんと同一人物と考えられる。
北朝鮮側は、田口さんは1984(昭和59)年に原 敕晁さんと結婚し、1986(昭和61)年の原さんの病死後すぐに自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。
平成21年3月、金賢姫氏と飯塚家との面会において、金氏より田口さんの安否にかかる重要な参考情報(注)が新たに得られたことから、現在、同情報についての確認作業を進めている。
(注)金氏の発言:「87年1月にマカオから帰ってきて、2月か3月頃、運転手から田口さんがどこか知らないところに連れて行かれたと聞いた。86年に一人暮らしの被害者を結婚させたと聞いたので、田口さんもどこかに行って結婚したのだと思った」

※「八重子さんが北朝鮮南浦港に着いたとき、女性通訳に“私には子供が二人いて、どうしても日本に帰らなくてはならないので、返してほしい”と何回も言ってお願いしたそうです。八重ちゃんの思いは最初から最後まで子供のことでいっぱいでしたし、今でも間違い無く“今、彩ちゃんはいくつになって、耕ちゃんはいくつになった”と毎年計算して、どんな大人になったか知りたがっているはずです。すごく会いたがっていると思います」
拉致被害者・地村富貴恵さんの証言)

◆昭和55(1980)年6月中旬
辛光洙シン・グァンス)事件
被害者:原 敕晁さん(拉致被害時43歳)
宮崎県内で発生。
本件については、北朝鮮工作員辛光洙シン・グァンス)が韓国当局に対し、原さん拉致を認める証言をしている。
捜査当局は辛光洙について、これまで原さんに成りかわった容疑で逮捕状の発付を得て国際手配するとともに、政府として北朝鮮側に身柄の引渡しを要求してきたが、平成18年4月には、新たに拉致容疑の主犯として逮捕状が発付されている。
北朝鮮側は身柄の引渡しに応じていないどころか、同人を「英雄」として称えている。
また、捜査当局は原さん拉致容疑の共犯者である金吉旭(キム・キルウク)についても逮捕状の発付を得ており、国際手配を行うなどの所要の措置を講じている。
北朝鮮側は、原さんは1984(昭和59)年に田口八重子さんと結婚し、1986(昭和61)年に肝硬変で死亡したとしているが、これを裏付ける資料等の提供はなされていない。

※「辛光洙は原 敕晁さんになりすますために、原さんについてのあらゆることを調べあげた。それこそ、チャーハンの作り方まで調べあげた」
(石高健次さん)