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金沢城

【2011年2月3日】

寛文5年7月29日、金沢藩主・前田綱紀のもとに一人の元大名がお預けになった。

一柳直興。
伊予西条2万5千石の外様小大名だった男だ。
この小大名が何をしでかしたのか?
お取り潰しの直接の理由は参勤交代での江戸への遅参だが、「出府拒否」は別として、遅参が理由でのお取り潰しは小大名に対する処分としてはあまりに不自然だ。だからこれは表向きの処分でしか無い。

実際の理由は直興の無断帰国にあった。
寛文元年1月、京都で火災が発生して皇居が焼失した。幕府は焼失した皇居の造営を諸大名に命じたが、そのメンバーの中に直興は名を連ねた。
幕府は直興に工事着工前と天皇家が新しい皇居にお移りになられる前の2回、京都行きを命じている。が、あろうことか直興は2度の京都行きで2度ともまっすぐ京都には行かずに西条に無断帰国したのだ。何故西条に無断帰国したのかは、よくわからない。
さらに罪を重くしたのは、天皇家が新しい皇居にお移りになられたあとに直興は入京していたにも関わらず、新居落成のお祝いの参内を怠ったのである。
参内せずに京都の町をのんきに歩いている姿を多くの人に目撃されていて、当然幕府の耳にも入った。

「大名は勝手に国許に帰ってはならない」
これは幕府が大名統制のために作ったルールで、このルールを守らせるために参勤交代制度があった。にも関わらず、直興は無断帰国したのだ。しかも2回。
無断帰国は重大な違反行為。幕府は参勤交代の遅参を理由に西条藩を取り潰した。

しかし、直興改易にはもう一つ理由があった。
修学院離宮である。
修学院離宮後水尾上皇のご意思で造営されることになり、設計・工事は幕府が執行した。工事の総責任者は京都所司代、直興はその補助役だった。

幕府ははじめ、京都所司代に対して



「粗末に造れ」



と命じていた。
ところが、竣工した離宮は幕府の命令に背き質素ながらも立派な離宮だった。

幕府はこれを問題視した。「勤王の連中がつけ上がる」と思ったのだ。
勤王の武士は幕初から存在した。幕末になって突然大量発生したのでは無い。
幕府は修学院離宮造営についても直興に疑惑の眼を向け、これもまたお取り潰しの一因となった。



金沢藩にお預けとなった直興はのちに赦免され、金沢に定住することが許された。そして金沢で生涯を閉じた。
享年79。
修学院離宮は18歳以上であれば事前申し込みの上で見学出来ます。