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松山城

【2011年2月24日】

吉田蔵沢。
墨画家として有名だが、本業は松山藩の代官だった。



42歳で代官になった。
それまでは無役である。
蔵沢は一度、猟官活動に失敗している。
藩主・松平定喬に対して強引な自薦活動を行い、ついには定喬に呆れられて



「おまえは登用しない」



とはっきり言われてしまった。このため、一番働き盛りである30代を棒に振った。
藩主に対して強引な自薦活動をすること自体、この時代では「変人」だとか「はみ出し者」だとか言われる。
家禄160石の人間が役職に就きたいと思うことそれ自体は全然おかしくないのだが、方法が狂っている。

やがて定喬が死んで定功の代になると、蔵沢はようやく代官に就任することが出来た。
代官に就任後、蔵沢はある藩士の家を訪ねた。
その藩士の家の庭にはみかん・柿・桃・梨等様々な果樹が植えてあった。
これを見た蔵沢は



士分の者が利を得ようとして実の成る木を植えるなど、論外である」



と言った。
家老や重職クラスならいざ知らず、下級藩士は日々の暮らしに苦しいのが一般的で、そんなことは160石取りの蔵沢が一番よく知っていたはずだ。
藩士



「このイカレポンチめ。代官になった途端にこの物言いか」



と不快に思った。

蔵沢にはその生涯を通じて奇行が目立った。
鼻水が出ても鼻紙を使わず衣服の袖で拭うため、蔵沢の袖はいつも乾いた鼻水でテカテカ光っていた。
また、『康煕辞典』という貴重な辞典を持っていたが、扱いが乱暴だったためページがバラバラになってしまった。
周りが「もったいないことを…」と言うと蔵沢は



「大事にする書物なら、同じ物をもう一冊買って飾っておくわ」



と笑いながら言い返した。
このため、蔵沢は松山藩では「あのイカレポンチ」と思われていた。

この「イカレポンチ」が書いた竹墨画は非常に人気を集めた。後年、病床の正岡子規が部屋に飾っていたくらいである。
蔵沢は竹墨画を描くとき、金銭での謝礼は一切受け取らなかった。その代わり、



白砂糖



を謝礼として定めた。白砂糖しか受け取らないのである。
砂糖が貴重な時代のことである。ある意味、金銭よりも贅沢なのだが、これは蔵沢の両親が砂糖を好物としていたからである。



蔵沢は死去する81歳まで竹墨画を描き続けた。
蔵沢の竹墨画松山藩では至宝として扱われ、現代でも美術ファンを魅了している。