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岡山城

【2011年2月25日】

池田新太郎光政。
岡山藩池田家の初代である。

通常、大名は家督を相続すると何らかの官名を与えられるもので、光政の父・利隆は池田武蔵守利隆だった。
光政も武蔵守を希望したのだが、酒井忠勝



「あいにくと武蔵守は空きがございませぬ」



と聞き入れなかった。
正確には、江戸が武蔵国にあるため外様大名なんかに武蔵守は与えられないのである。
しかし、32万石の大名に官名が無いというワケにはいかないので、酒井忠勝は「他の国の官名でどうか?」と気を遣った。

すると光政は



「武蔵守以外なら、いらない」



ときっぱり言い切った。
このため、池田光政は他の大名のような、例えば「伊達陸奥守忠宗」だとか「毛利大膳太夫秀就」だとかいう名乗りは無かった。光政は死ぬまで池田新太郎光政のまんまだった。光政が「新太郎少将」と呼ばれる所以である。

光政には常に「頑固」や「反骨」といったイメージがついて回る。
実際にはイメージでは無くて「頑固そのもの」、「反骨そのもの」であった。
自分が「こうだ」と決めたら決して曲げない。
幕府が口を挟んで来ても、自分が「正しい」と思ったら徹底的にやり抜く。
幕府と岡山藩は藩政を巡って衝突することがあったが、結局光政が折れたり譲ったりすることは無かった。
光政は



「主張しろ、妥協するな」



をやり通したのだ。

この「頑固オヤジ」は派手や贅沢を極端に嫌った。
そのため、岡山藩領内の祭は規模を縮小させられたり、地味なやり方に替えられたりした。
祭だけでは無く、食生活にも介入した。
光政は



「人間は一汁一菜で足りる。それ以上は口の奢り」



と言い、一汁一菜を岡山藩領民に強制した。
一汁一菜とは、汁物とおかず1品という意味だ。

領民はみんな怒ったが、光政自身が一汁一菜で過ごしているために逆らえない。
しかし、領民も負けてはいない。
領民は飯桶の底に魚や野菜を敷き詰め、その上にごはんを盛って外見からはわからないようにした。藩の役人が贅沢していないかどうか抜き打ちチェックするため、これに対抗したのだ。
役人が立ち去ったあと、領民は飯桶をひっくり返す。するとあらびっくり、具だくさんの食卓に早変わりする。
これがばら寿司の起源である。



2004年から6月27日は「ちらし寿司の日」に登録された。
6月27日は池田光政の命日である。皮肉なもんだ。